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つくば市の地区・大字

 つくば市内は、合併以前の旧町村単位に筑波地区、大穂地区、豊里地区、谷田部地区、桜地区、茎崎地区と呼ばれる。 合併当時は、タッチゾーン方式と呼ばれる旧町村単位の担当があったほか、つくば市内を2つの警察署で担当していた時代は、 その管轄が地区ごとに分かれていた。現在では、ごみの収集日が地区単位を基本とする。
 なお、つくば市合併当時はつくば市大字○○(例えばつくば市大字筑波1)という表記が正式だったが、茎崎町の合併時に大字を省略、 つくば市○○(同じくつくば市筑波1)と表記するのが正式となった。
 また大字名では、旧町村名のつく、つくば市筑波、つくば市大穂、つくば市谷田部、つくば市桜、つくば市茎崎はあるものの、つくば市豊里は唯一無い。 筑波、谷田部は、旧町時代からこの大字、筑波町筑波、谷田部町谷田部があった。大穂、桜、茎崎の大字は、つくば市誕生後に大字名となった。 豊里だけが唯一、後からつけられなかったことによる。
 各地区の人口は、国勢調査年の住民基本台帳に基づく10月1日現在。なお、筑波大学学生宿舎あるいは桜ニュータウンなど住所地とは別に統計されているものについては 別に表記した。
難読地名
 難読地名で、つくば市内で最も有名なのが西大通りと国道354号の交差点名にもなっている「大角豆」。 一般的な読みを辞書で調べると「ささげ」だが、住所名は「ささぎ」。豆のささげ自体が漢字で書かれていることがほぼ無いことから難読となっている。 いばキラTVでも取り上げられVチューバ―、茨ひよりが読めなかった「手子生」(てごまる)も難しい。 このほか難読として、「安食」(あじき)、「神郡」(かんごおり)、「百家」(はっけ)、「天宝喜」(あまぼうき)、「泊崎」(はっさき)などが知られている。 また「明石」(あけし)、「作谷」(つくりや)、「水守」(みもり)、「木俣」(このまた)、「房内」(ぼうち)なども正確に読むには難しいようだ。 なお、下妻市に筑波島という地名があるがこちらは「ちくわじま」と読む。

筑波地区の大字及びその由来、歴史

 つくば市筑波地区は、つくば市合併以前の旧筑波町を範囲とする。
明石(あけし)
 作谷の東側、田中の西側。国道125号が地区内を横断する。室町時代の佐竹氏文書に「あけし」とある。江戸時代は筑波郡明石村。 人口は2005(平成17)年185人、2010(平成22)年159人、2015(平成27)年155人、2020(令和2)年121人。
安食(あじき)
 筑波地区の最西端。作谷の西側、吉沼の北側。西側は、小貝川を挟んで下妻市と接する。茨城県道133号赤浜谷田部線が地区内を通る。 室町時代の佐竹氏文書に「常陸国下妻庄安敷郷」」とある。江戸時代は筑波郡安食村。1877(明治10)年、一乗院内に安食小学校が創設されている。 人口は2005(平成17)年1,074人、2010(平成22)年1,076人、2015(平成27)年1,049人、2020(令和2)年1,032人。
池田(いけだ)
 桜川右岸。磯部の北側、中菅間の南側。室町時代の結城家文書に「池田郷」とある。江戸時代は筑波郡池田村。 人口は2005(平成17)年264人、2010(平成22)年253人、2015(平成27)年242人、2020(令和2)年214人。
(いずみ)
 桜川左岸。西側は桜川を挟んで田中と接する。地区内を茨城県道213号長高野北条線が通る。江戸時代は筑波郡泉村。 人口は2005(平成17)年460人、2010(平成22)年459人、2015(平成27)年423人、2020(令和2)年364人。
磯部(いそべ)
 田中の北西側、池田の南側。室町時代の文書に「常州磯部」または「常州磯部郷」の記述が残る。江戸時代は筑波郡磯部村。磯辺村とも書いた。 人口は2005(平成17)年174人、2010(平成22)年157人、2015(平成27)年147人、2020(令和2)年124人。
臼井(うすい)
 筑波の南側、神郡の北側。地区内をつくば道(茨城県道139号筑波山公園線)が通る。 地名の由来は、地区内の田にあった井戸が枯れることなく水が清く澄んでいることから薄井、あるいは井戸の形が碓に似ていることから碓井と称したという。 江戸時代は筑波郡臼井村。 人口は2005(平成17)年770人、2010(平成22)年721人、2015(平成27)年647人、2020(令和2)年576人。
漆所(うるしじょ)
 神郡の南側、北条の北側。地名はその昔、漆千杯を埋めた所という伝説に由来するという。江戸時代は筑波郡漆所村。 人口は2005(平成17)年157人、2010(平成22)年138人、2015(平成27)年110人、2020(令和2)年74人。
大形(おおがた)
 小田の南側。地区内を国道125号が通る。東側は土浦市と接する。江戸時代は筑波郡大形村。 人口は2005(平成17)年560人、2010(平成22)年512人、2015(平成27)年462人、2020(令和2)年436人。
大形案内板
県道53号つくば千代田線沿いにある大形入口案内板
大貫(おおぬき) 桜川の左岸。神郡の西側。平安時代の文書に筑波郡大貫郷とある。また戦国時代の小田氏文書「大貫杉木郷」との記述がある。
 江戸時代は筑波郡大貫村。 人口は2005(平成17)年120人、2010(平成22)年109人、2015(平成27)年87人、2020(令和2)年84人。
小沢(おざわ)
 北条の北東、漆所の南側。得d時代は筑波郡小沢村。 人口は2005(平成17)年220人、2010(平成22)年198人、2015(平成27)年161人、2020(令和2)年141人。
小田(おだ)
 北条の南東。東側は土浦市に接する。宝篋山(小田山)がある。地区内を国道125号が縦断、茨城県道53号つくば千代田線が横断する。 中世を通じて小田氏15代の拠点。鎌倉時代の小田氏の文書には「をた」の記述がある。江戸時代は筑波郡小田村、近江・佐久間氏領から旗本領を経て土浦藩領。 人口は2005(平成17)年2,116人、2010(平成22)年2,018人、2015(平成27)年1,934人、2020(令和2)年1,822人。
小田の街並み 小田西町案内板
小田の街並み(左)、県道53号つくば千代田線沿いにある小田西町入口案内板(右)
上大島(かみおおしま)
 筑波山の西麓。桜川右岸。つくば市最北部。上大島工業団地がある。 江戸時代は筑波郡大島村。1878(明治11)年、同郡内の大島村=現在のつくば市下大島=と区別するため「上」をつけ上大島村と改称した。 人口は2005(平成17)年874人、2010(平成22)年798人、2015(平成27)年730人、2020(令和2)年654人。
上大島の街並み
上大島の街並み
上沢(かみさわ)
 水守の南側。1976(昭和51)年、旧筑波町水守、山木、旧大穂町前野の各一部を住居変更した。高エネルギー研究機構の旧筑波町部分。
上菅間(かみすがま)
 桜川の右岸。中菅間の北側。桜川を挟んで国松と接する。北側は筑西市。 江戸時代は筑波郡上菅間村。 人口は2005(平成17)年263人、2010(平成22)年256人、2015(平成27)年244人、2020(令和2)年229人。
神郡(かんごおり)
 臼井の南側、北条の北側。東側は石岡市と境を接する。地区内をつくば道(茨城県道139号筑波山公園線)が通る。 室町時代の文書に「常州カン郡」とある。江戸時代は筑波郡神郡村。 人口は2005(平成17)年787人、2010(平成22)年757人、2015(平成27)年722人、2020(令和2)年674人。
神郡の街並み
神郡の街並み
北太田(きたおおた)
 桜川の左岸。小田の西側。地区内を茨城県道53号つくば千代田線が通る。 地名は戦国時代の領主、梶原氏の旧姓、太田に由来するという。江戸時代は筑波郡太田村。 1878(明治11)年、同郡内の太田村=現在のつくばみらい市南太田=と区別するため「北」をつけ北太田村とした。 人口は2005(平成17)年222人、2010(平成22)年199人、2015(平成27)年191人、2020(令和2)年171人。
北太田案内板
県道53号つくば千代田線沿いにある北太田入口案内板
君島(きみじま)
 桜川の左岸。小田、北条の西側。地区内を茨城県道19号取手つくば線が通る。江戸時代は筑波郡君島村。 人口は2005(平成17)年341人、2010(平成22)年335人、2015(平成27)年310人、2020(令和2)年284人。
君島案内板
君島入口案内板
国松(くにまつ)
 筑波山の西麓。桜川の左岸。沼田の北側、上大島の南側。茨城県道14号筑西つくば線が地区内を縦断する。 鎌倉時代の文書に「国松」の記述が見える。江戸時代は筑波郡国松村。 人口は2005(平成17)年659人、2010(平成22)年618人、2015(平成27)年567人、2020(令和2)年504人。
小泉(こいずみ)
 泉の北側、北条の南側。地区内を茨城県道213号長高野北条線が通る。 筑波郡小泉村。 人口は2005(平成17)年77人、2010(平成22)年68人、2015(平成27)年65人、2020(令和2)年61人。
高野原新田(こうやはらしんでん)
 磯部の西側。江戸時代、作谷村内の平地林を開墾した。明治初年頃、作谷村から分村した。 人口は2005(平成17)年41人、2010(平成22)年30人、2015(平成27)年25人、2020(令和2)年28人。
小和田(こわだ)
 北条、小田、山口の三方を囲まれている。地区内を国道125号が通る。 戦国時代の文書には「小綿」の表記が見られる。また1596(文禄3)年の太閤検地の記録では小和田村となっている。江戸時代は筑波郡小和田村。 人口は2005(平成17)年188人、2010(平成22)年204人、2015(平成27)年239人、2020(令和2)年233人。
下大島(しもおおしま)
 大形の南東、土浦市に突き出した地形。地区内を国道125号が通る。 江戸時代は筑波郡大島村。1878(明治11)年、同郡内の大島村=現在のつくば市上大島=と区別するため「下」をつけ下大島村と改称した。 人口は2005(平成17)年202人、2010(平成22)年184人、2015(平成27)年182人、2020(令和2)年176人。
杉木(すぎのき)
 桜川左岸。北条の北側、大貫の南側。戦国時代の小田氏の文書に「大貫杉木郷」の記述がある。江戸時代は筑波郡杉木村。 人口は2005(平成17)年108人、2010(平成22)年103人、2015(平成27)年108人、2020(令和2)年98人。
田中(たなか)
 桜川右岸。水守の北側。国道125号、国道408号が地区内を通る。平安時代に成立した田中荘の本郷とされる。 室町時代の文書には「田中郷」の記述がある。江戸時代は筑波郡田中村。 人口は2005(平成17)年1,061人、2010(平成22)年984人、2015(平成27)年923人、2020(令和2)年845人。
田水山(たみやま)
 水守の北側、田中の南西側。
筑波(つくば)
 筑波山山頂を含む南麓。南は臼井、沼田と、西は上大島、国松と接する。北側は桜川市、東側は石岡市との境界。旧筑波町。筑波山神社(旧知足院)の門前町。 茨城県道42号笠間つくば線が横断、風返峠がある。つくば道(茨城県道139号筑波山公園線)が通る。 人口は2005(平成17)年697人、2010(平成22)年630人、2015(平成27)年576人、2020(令和2)年523人。
筑波の街並み
筑波山神社門前の街並み
作谷(つくりや)
 水守の西側、安食の東側。地区内を国道125号が通る。 室町時代の文書には「造谷郷」、あるいは「作屋郷」とある。江戸時代は筑波郡作谷村。 人口は2005(平成17)年1,548人、2010(平成22)年1,501人、2015(平成27)年1,404人、2020(令和2)年1,287人。
寺具(てらぐ)
 作谷の西側。西は下妻市との境界。地区内を国道125号が通る。安土桃山時代の文書に「てらこ」とある。江戸時代は筑波郡寺具村。 人口は2005(平成17)年562人、2010(平成22)年530人、2015(平成27)年510人、2020(令和2)年449人。
中菅間(なかすがま)
 桜川の右岸。上菅間の南側。茨城県道214号沼田下妻線が地区内を横断する。 江戸時代は筑波郡中菅間村。 人口は2005(平成17)年475人、2010(平成22)年458人、2015(平成27)年442人、2020(令和2)年415人。
沼田(ぬまた)
 桜川左岸。東は筑波。茨城県道42号笠間つくば線が地区内を横断する。江戸時代は筑波郡沼田村。 人口は2005(平成17)年846人、2010(平成22)年801人、2015(平成27)年730人、2020(令和2)年656人。
沼田の街並み
沼田の街並み
平沢(ひらさわ)
 神郡の南側、山口の北側。東側は石岡市との境界。地区内を茨城県道138号石岡つくば線が横断、不動峠で石岡市に通じる。 江戸時代は筑波郡平沢村。天領、近江・山路藩領、下総・佐倉藩領などを経て1698(元禄11)年から土浦藩領。 人口は2005(平成17)年391人、2010(平成22)年357人、2015(平成27)年356人、2020(令和2)年348人。
北条(ほうじょう)
 小田の北側、神郡の南側。地区内を国道125号はじめ、茨城県道14号筑西つくば線、茨城県道19号取手つくば線、茨城県道138号石岡つくば線、 茨城県道139号筑波山公園線(つくば道)、茨城県道213号長高野北条線が通る。 江戸時代は北条内町、北条中町、北条新町。明治初年頃、これら3町が合併し北条村。1887(明治20)年に北条町となる。 江戸時代は、佐久間勝之、続いて堀田正盛が陣屋を置き北条藩が成立、その後1698(元禄11)年から土浦藩領。 人口は2005(平成17)年3,580人、2010(平成22)年3,315人、2015(平成27)年3,094人、2020(令和2)年2,910人。
北条の街並み
旧筑波町の中心として栄えた北条の街並み。現在も多くの商店が軒を連ねる
洞下(ほらげ)
 作谷、寺具の北側。洞下宿。江戸時代は筑波郡洞下村。 人口は2005(平成17)年799人、2010(平成22)年744人、2015(平成27)年690人、2020(令和2)年654人。
洞下の街並み
宿場として栄えた洞下の街並み
水守(みもり)
 作谷の東側。将門記にも「水守郷」とある。安土桃山の佐竹氏文書には「三森之村」との記述が見られる。江戸時代は筑波郡水守村。 人口は2005(平成17)年720人、2010(平成22)年720人、2015(平成27)年695人、2020(令和2)年643人。
山木(やまき)
 水守の東側。戦国時代の佐竹氏の文書に「山木」の記述が見られる。江戸時代は新治郡山木村。八巻とも書いた。 人口は2005(平成17)年394人、2010(平成22)年366人、2015(平成27)年328人、2020(令和2)年302人。
山口(やまぐち)
 小田の北側。東側は石岡市、土浦市との境界。名前は不動峠へ入る山の入口にあったことからという。江戸時代は筑波郡山口村。 人口は2005(平成17)年514人、2010(平成22)年508人、2015(平成27)年437人、2020(令和2)年384人。
和台(わだい)
 作谷、水守の南側。筑波北部工業団地の概成に伴い、旧筑波町水守などの一部を変更した。

大穂地区の大字及び由来、歴史

 つくば市大穂地区は、つくば市合併以前の旧大穂町を範囲とする。
大久保(おおくぼ)
 大砂の北東側。テクノパーク大穂の概成に伴い、大砂の一部を変更した。
大砂(おおすな)
 西高野の東側。旧吉沼村。江戸時代は筑波郡大砂村、主に仙台藩領。 人口は2005(平成17)年960人、2010(平成22)年995人、2015(平成27)年981人、2020(令和2)年999人。
大曽根(おおぞね)
 玉取の北西側。方穂郷、方穂荘。鎌倉時代は北条得宗領、室町時代は小田氏領、佐竹氏領。江戸時代は新治郡大曽根村で、天領、旗本領。 人口は2005(平成17)年1,965人、2010(平成22)年2,377人、2015(平成27)年2,377人、2020(令和2)年2,439人。
大曽根の街並み
大曽根の街並み
大穂(おおほ)
 前野の東側。つくば市の誕生に伴い、前野の一部を変更し大穂とした。 人口は2005(平成17)年2人、2015(平成27)年25人、2020(令和2)年13人。
長高野(おさごうや)
 前野、篠崎の西側。江戸時代は新治郡長高野村で、天領、旗本領。 人口は2005(平成17)年1,108人、2010(平成22)年1,060人、2015(平成27)年993人、2020(令和2)年946人。
鹿島台(かしまだい)
 大曽根の南部。筑波研究学園都市の建設に伴い、宅地開発を行い、大曽根の一部を変更した。 人口は2005(平成17)年199人、2010(平成22)年263人、2015(平成27)年273人、2020(令和2)年298人。
(かなめ)
 天王台の西側。1884(明治17)年、筑波郡猿壁村、同弥平太村、同上口堀村、同下口堀村、同中根村が合併し要村が成立。 人口は2005(平成17)年1,719人、2010(平成22)年1,805人、2015(平成27)年1,881人、2020(令和2)年2,027人。
北原(きたはら)
 長高野の北側。筑波北部工業団地南部。筑波北部工業団地の概成に伴い、長高野の一部を変更した。
(さ)
 佐村の記述は室町時代の文書に見られる。江戸時代は新治郡佐村。 人口は2005(平成17)年234人、2010(平成22)年219人、2015(平成27)年208人、2020(令和2)年191人。
篠崎(しのざき)
 前野の南側。戦国時代の宇都宮氏文書に「篠崎」の記述がある。江戸時代は新治郡篠崎村で、麻生藩領、遠江浜松藩領を経て旗本領。 人口は2005(平成17)年1,092人、2010(平成22)年1,224人、2015(平成27)年1,499人、2020(令和2)年1,678人。
立原(たちはら)
 篠崎の東側。筑波研究学園都市の建設に伴い、篠崎、蓮沼の一部などを変更した。
玉取(たまとり)
 大曽根の南東側。室町時代の文書には「玉取郷」の記述がある。江戸時代は、新治郡玉取村。玉取藩の陣屋が置かれていた。その後天領、旗本領。 人口は2005(平成17)年911人、2010(平成22)年871人、2015(平成27)年897人、2020(令和2)年852人。
筑穂(つくほ)
 蓮沼の北側。区画整理事業の概成に伴い、蓮沼の一部などを変更した。1丁目から3丁目まである。 人口は筑穂1丁目が2005(平成17)年172人、2010(平成22)年184人、2015(平成27)年201人、2020(令和2)年194人。 筑穂2丁目が2005(平成17)年456人、2010(平成22)年547人、2015(平成27)年526人、2020(令和2)年571人。 筑穂3丁目が2005(平成17)年293人、2010(平成22)年403人、2015(平成27)年436人、2020(令和2)年473人。
西高野(にしごうや)
 吉沼の東側。室町時代の文書には「西広野」とある。江戸時代は筑波郡西高野村で、主に仙台藩領。 人口は2005(平成17)年955人、2010(平成22)年921人、2015(平成27)年923人、2020(令和2)年845人。
西沢(にしざわ)
 要の西側。学園西大通り(国道408号)沿い。1978(昭和53)年、大穂町要などの一部を区画整理事業により成立。 人口は2005(平成17)年2人、2020(令和2)年46人。
蓮沼(はすぬま)
 要の北側。江戸時代は新治郡蓮沼村で、はじめ結城氏領のち旗本領。 人口は2005(平成17)年243人、2010(平成22)年265人、2015(平成27)年292人、2020(令和2)年312人。
花畑(はなばたけ)
 大曽根の南西側。学園東大通り沿い。筑波研究学園都市の建設に伴い、1974(昭和49)年、蓮沼、大曽根などを変更した。 1丁目から3丁目まである。 人口は花畑1丁目が2005(平成17)年1,172人、2010(平成22)年1,314人、2015(平成27)年1,393人、2020(令和2)年1,453人。 花畑2丁目が2005(平成17)年580人、2010(平成22)年979人、2015(平成27)年1,053人、2020(令和2)年1,022人。 花畑3丁目が2005(平成17)年1,822人、2010(平成22)年1,755人、2015(平成27)年1,917人、2020(令和2)年2,046人。
本沢(ほんざわ)
 要と北郷の間。1978(昭和53)年、大穂町要の一部が区画整理事業によって成立。
前野(まえの)
 篠崎の北側。戦国時代の文書には「前野郷」の記述が見られる。江戸時代は新治郡前野村、旗本領、天領。 人口は2005(平成17)年994人、2010(平成22)年972人、2015(平成27)年919人、2020(令和2)年836人。
南原(みなみはら)
 蓮沼の西側、篠崎の東側。筑波研究学園都市の建設に伴い、1978(昭和53)年、篠崎、蓮沼などを変更した。
吉沼(よしぬま)
 田倉の北側。江戸時代は、筑波郡吉沼村で、主に仙台藩領。つくば市の最西端。 人口は2005(平成17)年2,659人、2010(平成22)年2,526人、2015(平成27)年2,426人、2020(令和2)年2,208人。
吉沼の街並み
旧仙台藩領として栄えた吉沼の街並み
若森(わかもり)
 大曽根の北側。鎌倉時代の文書に「若森郷」の記述がある。 江戸時代、大曽根村の枝村から分村した。新治郡若森村。中世は北条得宗領。廃藩置県で若森県庁が置かれていたことで知られる。 人口は2005(平成17)年368人、2010(平成22)年347人、2015(平成27)年322人、2020(令和2)年293人。

豊里地区の大字及び由来、歴史

 つくば市豊里地区は、つくば市合併以前の旧豊里町を範囲とする。
(あさひ)
 学園西大通り(国道408号線)沿い、沼崎の東側にある。豊里地区の東端。筑波研究学園都市の建設に伴い1978(昭和53)年、 旧豊里町沼崎、遠東及び旧大穂町要、旧谷田部町要の一部を住居表示変更した。 国土技術政策総合研究所がある。
今鹿島(いまがしま)
 沼崎の西側に広がる。茨城県道45号つくば真岡線が地区内を縦断する。 地名は源義家が奥州に赴く際、鹿島神宮に詣でようとしたが、鹿島までは遠いことを知り、「今の鹿島だ」と椿の杖を地に刺して「武運長久」を祈願したとされる伝説が残る。 また、室町時代の文書には「下妻庄内今賀嶋村」の表記もみられる。1594(文禄3)年の太閤検地で筑波郡に属す。江戸時代は筑波郡今鹿島村。 人口は2005(平成17)年2,256人、2010(平成22)年2,225人、2015(平成27)年2,265人、2020(令和2)年2,153人。
今鹿島の街並み
今鹿島の宿通り
上郷(かみごう)
 小貝川の左岸に広がる。地区内を茨城県道24号土浦境線が横断、茨城県道133号赤浜谷田部線が縦断する。 地域内に豊里グリーンタウンがある。 台豊田。豊田上郷。旧上郷村。中世は豊田氏支配。太閤検地により文禄年間(1593〜96年)、上原、上宿、横宿、権現宿、台宿、西原、金村、大山、 神谷森、道角、角内、野手、仕出の13ヶ村が台豊田上之郷として1村になった。江戸時代は筑波郡上郷村。 人口(豊里グリーンタウンを除く)は2005(平成17)年4,471人、2010(平成22)年4,454人、2015(平成27)年4,316人、2020(令和2)年3,985人。 豊里グリーンタウンの人口は2005(平成17)年132人、2010(平成22)年175人、2015(平成27)年146人、2020(令和2)年171人。
上郷の街並み
商店街の面影を残す上郷の街並み
上里(かみさと)
 今鹿島の西側。西谷田川の左岸。江戸時代は牛縊村。牛の首の形をした地形からこの名がついたとされる。 旧吉沼村に属していたが、1956(昭和31)年分村して旧豊里町と合併、合わせて地名を牛縊から上里に変更した。 人口は2005(平成17)年473人、2010(平成22)年469人、2015(平成27)年431人、2020(令和2)年398人。
高野(こうや)
 今鹿島の南側。地区内を茨城県道24号土浦境線が横断、茨城県道45号つくば真岡線が縦断する。旧豊里町役場があった。 江戸時代は筑波郡高野村。 人口は2005(平成17)年462人、2010(平成22)年466人、2015(平成27)年544人、2020(令和2)年629人。
木俣(このまた)
 東西に上郷、北は手子生、南は中別府に囲まれている。小沼田、此又から転じたとされる。 天正年間、豊田氏の旧臣が帰農し村を形成したとされる。江戸時代は筑波郡木俣村。 人口は2005(平成17)年178人、2010(平成22)年125人、2015(平成27)年132人、2020(令和2)年117人。
酒丸(さけまる)
 沼崎の南側。茨城県道24号土浦境線が地区内を横断する。1884(明治17)年、いずれも筑波郡の西酒丸村、西谷賀代村、中東村が合併して誕生。 人口は2005(平成17)年674人、2010(平成22)年776人、2015(平成27)年846人、2020(令和2)年849人。
田倉(たくら)
 小貝川の左岸、上郷の北に位置する。もとは吉沼村吉沼字田倉。江戸時代は仙台藩領。 1956(昭和31)年12月、分村合併した。 人口は2005(平成17)年508人、2010(平成22)年473人、2015(平成27)年449人、2020(令和2)年461人。
田倉
田倉の街並み
土田(つちだ)
 酒丸の南側、東光台の東側にある。名前は江戸時代末にこの地を開発した上郷村の土田重兵衛に由来する。重兵衛新田ともいった。 1883(明治16)年、西酒丸新田から改称し筑波郡土田村となった。 人口は2005(平成17)年144人、2010(平成22)年155人、2015(平成27)年149人、2020(令和2)年164人。
手子生(てごまる)
 西谷田川の左岸、上郷の東側にある。区内を茨城県道24号土浦境線が横断する。 生(まる)はもと丸を使い、西谷田川に囲まれた手の形をした丸い土地からついた地名という説がある。 中世には手子丸城があった。江戸時代は筑波郡手子丸村あるいは手子生村。 人口は2005(平成17)年666人、2010(平成22)年625人、2015(平成27)年595人、2020(令和2)年589人。
東光台(とうこうだい)
 遠東の西側、酒丸の東側。筑波研究学園都市の建設に伴い1981(昭和56)年、旧豊里町遠東、酒丸、土田などの一部を住居表示を変更した。 1丁目から5丁目まである。 人口は東光台1丁目が2005(平成17)年461人、2010(平成22)年720人、2015(平成27)年794人、2020(令和2)年818人。 東光台2丁目が2005(平成17)年563人、2010(平成22)年718人、2015(平成27)年779人、2020(令和2)年777人。 東光台3丁目が2005(平成17)年358人、2010(平成22)年503人、2015(平成27)年460人、2020(令和2)年485人。 東光台4丁目が2005(平成17)年259人、2010(平成22)年370人、2015(平成27)年381人、2020(令和2)年387人。 東光台5丁目が2010(平成22)年14人、2015(平成27)年31人、2020(令和2)年31人。
東光台 東光台案内板
東光台のメインストリート(左)、旧豊里町時代に設けられた案内板(右)
遠東(とおひがし)
 豊里地区南側の東端。江戸時代は筑波郡遠東村。 人口は2005(平成17)年484人、2010(平成22)年495人、2015(平成27)年481人、2020(令和2)年474人。
豊里の杜(とよさとのもり)
 高野の南側、百家の北側。宅地開発に伴い、つくば市百家、同高野の一部を住居表示を変更した。 人口は豊里の杜1丁目が2005(平成17)年678人、2010(平成22)年908人、2015(平成27)年989人、2020(令和2)年973人。 豊里の杜2丁目が2005(平成17)年219人、2010(平成22)年938人、2015(平成27)年1,371人、2020(令和2)年1,389人。
豊里の杜の街並み
豊里の杜のメインストリート
中東原新田(なかひがしはらしんでん)
 東光台の東側。江戸時代の天保期以降の新田。幕末は天領。 人口は2005(平成17)年47人、2010(平成22)年44人、2015(平成27)年55人、2020(令和2)年46人。
沼崎(ぬまざき)
 今鹿島の東側。茨城県道200号藤沢豊里線が地区内を横断する。戦国時代の文書に「沼崎郷」の記述が見られる。また沼崎城があった。 江戸時代は沼崎屋賀代村、北村、辻村、中野内村、東原村、前木村、九本木村の7村を総称して沼崎村とされた。明治初年にこの7村が合併し筑波郡沼崎村となった。。 人口は2005(平成17)年942人、2010(平成22)年919人、2015(平成27)年869人、2020(令和2)年805人。
野畑(のばた)
 上郷の東側、百家の東側に位置する。茨城県道45号つくば真岡線が地区内を縦断する。江戸時代は筑波郡野畑村。 人口は2005(平成17)年225人、2010(平成22)年194人、2015(平成27)年175人、2020(令和2)年177人。
百家(はっけ)
 豊里の杜の南側。茨城県道45号つくば真岡線が地区内を縦断する。江戸時代は筑波郡百家村。 人口は2005(平成17)年399人、2010(平成22)年385人、2015(平成27)年365人、2020(令和2)年349人。
緑ケ原(みどりがはら)
 手子生の北側。西谷田川の左岸。テクノパーク豊里の概成に伴い、つくば市手子生から住居表示を変更した。

谷田部地区の大字及び由来、歴史

 つくば市谷田部地区は、つくば市合併以前の旧谷田部町を範囲とする。
赤塚(あかつか)
 下原の西側。地区内を国道354号、茨城県道244号妻木赤塚線、茨城県道274号牛久赤塚線が通る。江戸時代は河内郡赤塚村。 旗本由良氏領。牛久宿助郷村。 人口は2005(平成17)年878人、2010(平成22)年958人、2015(平成27)年964人、2020(令和2)年952人。
新井(あらい)
 山中の南側。地区内を茨城県道19号取手つくば線が通る。江戸時代は新治郡新井村。 人口は2005(平成17)年51人、2010(平成22)年60人、2015(平成27)年56人、2020(令和2)年60人。
新牧田(あらまきだ)
 下原の南側。江戸時代は河内郡新牧田村。旗本由良氏領。由良氏の陣屋があった。 人口は2005(平成17)年121人、2010(平成22)年109人、2015(平成27)年100人、2020(令和2)年97人。
新牧田案内板
新牧田案内板
飯田(いいだ)
 谷田部の南東側。茨城県道3号つくば野田線が地区内を通る。江戸時代は筑波郡飯田村。谷田部藩領。明治初年頃、上飯田村と下飯田村に分村。 1879(明治12)年、合併し再び飯田村となる。 人口は2005(平成17)年383人、2010(平成22)年328人、2015(平成27)年314人、2020(令和2)年277人。
市之台(いちのだい)
 下横場の南東側。地区内を茨城県道202号館野牛久線が通る。江戸時代の延宝年間(1673〜81年)に下横場村から分村、河内郡市ノ台村となる。 谷田部藩領。 人口は2005(平成17)年206人、2010(平成22)年187人、2015(平成27)年183人、2020(令和2)年180人。
稲岡(いなおか)
 下原の南側。地区内を国道6号及び茨城県道274号牛久赤塚線が通る。江戸時代は河内郡稲岡村。旗本由良氏領。牛久宿助郷村。 人口は2005(平成17)年516人、2010(平成22)年491人、2015(平成27)年501人、2020(令和2)年483人。
稲荷前(いなりまえ)
 赤塚の北側。長峰の南側。筑波研究学園都市の建設に伴い1978(昭和53)年、旧谷田部町赤塚、西大沼、館野の一部の住居表示を変更した。 稲荷神社があることから稲荷前となった。 人口は2005(平成17)年1,955人、2010(平成22)年1,912人、2015(平成27)年2,228人、2020(令和2)年1,959人。 茗渓学園寮が2005(平成17)年89人、2010(平成22)年101人、2015(平成27)年39人、2020(令和2)年78人。
今泉(いまいずみ)
 上横場の南側。江戸時代もとは今和泉新田、元禄年間(1688〜1704年)以降、河内郡今泉村。 人口は2005(平成17)年235人、2010(平成22)年268人、2015(平成27)年278人、2020(令和2)年271人。
榎戸(えのきど)
 上横場の東側。国道354号と国道408号が交差する。江戸時代は河内郡榎戸村。谷田部藩領。牛久宿助郷村。 人口は2005(平成17)年455人、2010(平成22)年525人、2015(平成27)年567人、2020(令和2)年562人。
大白硲(おおじらはざま)
 島名の東側。小白硲の北側。江戸時代初期は苅間郷の一部で新治郡白硲村。 1625(寛永2)年の検地で小白硲村を分村した。貞享年間(1684〜88年)ごろまでに大白硲村と改称する。麻生藩領から旗本領。 人口は2005(平成17)年91人、2010(平成22)年103人、2015(平成27)年108人、2020(令和2)年115人。
大わし(おおわし)
 上横場の北側。筑波研究学園都市の建設に伴い1975(昭和50)年、谷田部町手代木、上横場の一部の住居表示を変更した。
鬼ケ窪(おにがくぼ)
 島名の北側。地区内を茨城県道45号つくば真岡線が通る。江戸時代は筑波郡鬼ケ窪村。 人口は2005(平成17)年441人、2010(平成22)年494人、2015(平成27)年476人、2020(令和2)年447人。
小野川(おのがわ)
 上原の南側、館野の北側。筑波研究学園都市の建設に伴い1977(昭和52)年、谷田部町西大沼、中内、館野、上原の各一部の住居表示を変更した。 人口は2005(平成17)年1,287人、2010(平成22)年1,321人、2015(平成27)年1,352人、2020(令和2)年1,316人。
小野崎(おのざき)
 松代の東側。江戸時代は河内郡小野崎村。谷田部藩領。 1989(明治22)年河内郡小野川村小野崎。1896(明治29)年筑波郡小野川村小野崎。1955(昭和30)年谷田部町小野崎。 人口は2005(平成17)年946人、2010(平成22)年1,203人、2015(平成27)年1,376人、2020(令和2)年1,542人。
面野井(おものい)
 島名の東側。日本自動車研究所がある。江戸時代は筑波郡面野井村おるいは面ノ井村。 人口は2005(平成17)年290人、2010(平成22)年283人、2015(平成27)年289人、2020(令和2)年278人。
学園南(がくえんみなみ)
 つくばエクスプレスの沿線開発に伴いつくば市面野井、苅間の一部を住居表示を変更した。1丁目から3丁目まである。 人口は現住居表示統計前の2010(平成22)年は、苅間学園南111人、葛城根崎学園南109人。 人口は学園南1丁目が2015(平成27)年328人、2020(令和2)年630人。 学園南2丁目が2015(平成27)年638人、2020(令和2)年1,364人。 学園南3丁目が2015(平成27)年1,239人、2020(令和2)年2,117人。
学園の森(がくえんのもり)
 つくばエクスプレスの沿線開発に伴いつくば市面野井、苅間、西平塚などから住居表示を変更した。 1丁目から3丁目まである。 人口は学園の森1丁目が2015(平成27)年614人、2020(令和2)年1,932人。 学園の森2丁目が2015(平成27)年496人、2020(令和2)年2,566人。 学園の森3丁目が2015(平成27)年514人、2020(令和2)年1,358人。
学園の森の街並み
学園の森の街並み
梶内(かじうち)
 赤塚の南側。江戸時代は河内郡梶内村。旗本由良氏領。牛久宿助郷村。 人口は2005(平成17)年160人、2010(平成22)年145人、2015(平成27)年142人、2020(令和2)年148人。
梶内案内板
梶内案内板
春日(かすが)
 研究学園地区。天久保の西側。筑波研究学園都市の建設に伴い、1977(昭和52)年、 谷田部町苅間、下平塚、西平塚、東平塚及び桜村妻木の各一部の住居表示を変更した。 春日1丁目〜4丁目まである。名称は苅間、東平塚の小字名が由来。 人口は春日1丁目が2005(平成17)年1,177人、2010(平成22)年1,261人、2015(平成27)年881人、2020(令和2)年959人。 春日2丁目が2005(平成17)年2,198人、2010(平成22)年2,610人、2015(平成27)年2,879人、2020(令和2)年3,042人。 春日3丁目が2005(平成17)年1,744人、2010(平成22)年1,845人、2015(平成27)年1,932人、2020(令和2)年1,871人。 春日4丁目が2005(平成17)年2,151人、2010(平成22)年2,259人、2015(平成27)年2,271人、2020(令和2)年1,919人。
片田(かただ)
 谷田部地区の南西部、つくばみらい市に突き出ている。江戸時代は筑波郡片田村。谷田部藩領。 人口は2005(平成17)年272人、2010(平成22)年254人、2015(平成27)年230人、2020(令和2)年33人。
葛城根崎(かつらぎねざき)
 苅間に隣接する。つくばエクスプレス、研究学園駅とつくば駅間の南側。 江戸時代の正保年間(1645〜48年)から元禄年間(1688〜1704年)ごろ、苅間郷から分村し新治郡根崎村。麻生藩領から天領。 1889(明治22)年、葛城村根崎となる。昭和の大合併で谷田部町と合併の際、谷田部町根崎があったことから、区別するため葛城根崎とした。 人口は2005(平成17)年49人、2010(平成22)年69人、2015(平成27)年51人、2020(令和2)年44人。
香取台(かとりだい)
 つくばエクスプレスの沿線開発に伴い、つくば市島名の一部の住居表示を変更した。 人口は2010(平成22)年833人、2015(平成27)年2,528人、2020(令和2)年3,541人。
上萱丸(かみかやまる)
 みどりの駅周辺。国道354号北側。江戸時代は筑波郡萱丸村。明治初年に分村し筑波郡上萱丸村。 人口は2005(平成17)年172人、2010(平成22)年196人、2015(平成27)年214人、2020(令和2)年202人。
かみかわ
 つくばエクスプレスの沿線開発に伴い、2010(平成22)年4月1日、つくば市上河原崎の一部の住居表示を変更した。 人口は2020(令和2)年1人。
上河原崎(かみかわらざき)
 鬼ケ窪の西側。茨城県道45号つくば真岡線が縦断する。また、茨城県道123号土浦坂東線が通る。 江戸時代は筑波郡上河原崎村。 人口は2005(平成17)年316人、2010(平成22)年311人、2015(平成27)年290人、2020(令和2)年281人。 上河原崎・中西地区は2010(平成22)年25人、2015(平成27)年11人、2020(令和2)年4人。
上河原崎案内板
茨城県道123号土浦坂東線沿いにある上河原崎案内板
上原(かみはら)
 小野川の北側、松野木の南側。江戸時代は河内郡原村。1868(明治元)年に分村し河内郡上原村。 人口は2005(平成17)年369人、2010(平成22)年436人、2015(平成27)年491人、2020(令和2)年529人。
上横場(かみよこば)
 谷田部の東側、観音台の北側。江戸時代は河内郡上横場村。谷田部藩領。 人口は2005(平成17)年1,916人、2010(平成22)年2,090人、2015(平成27)年2,165人、2020(令和2)年2,212人。
苅間(かりま)
 春日の南側。古くは苅間村、大白硲村、小白硲村、大橋村、根崎村、柳橋村、平村、山中村、新井村、島村の10村で苅間郷あるいは苅間村と呼ばれていた。 江戸時代の正保年間(1645〜48年)から元禄年間(1688〜1704年)にかけて各村々が独立。苅間村は上苅間村と改称するとともに岡村を分村した。 明治初年、新治郡上苅間村が苅間村に改称。 人口は2005(平成17)年1,068人、2010(平成22)年1,249人、2015(平成27)年1,243人、2020(令和2)年1,218人。
観音台(かんのんだい)
 上横場の南側。国道408号沿い。筑波研究学園都市の建設に伴い1977(昭和52)年、谷田部町今泉、榎戸、谷田部、羽成、 上横場、北中妻、南中妻の各一部の住居表示を変更した。1丁目から3丁目まである。 人口は観音台1丁目が2005(平成17)年1,795人、2010(平成22)年1,889人、2015(平成27)年2,221人、2020(令和2)年2,256人。 観音台2丁目が2005(平成17)年22人、2010(平成22)年44人、2015(平成27)年46人、2020(令和2)年14人。
北郷(きたさと)
 要の南側。学園東大通り沿い。筑波研究学園都市の建設に伴い1978(昭和53)年、谷田部町東平塚、西平塚及び大穂町要の各一部の住居表示を変更した。 国土地理院がある。
北中島(きたなかじま)
 稲岡の南側。江戸時代は河内郡中島村。明治初年頃、同郡内に同名の村=現在の龍ケ崎市南中島=があったことから「北」をつけ北中島村とした。 人口は2005(平成17)年279人、2010(平成22)年258人、2015(平成27)年264人、2020(令和2)年254人。
北中妻(きたなかづま)
 榎戸の南側。江戸時代は河内郡北中妻村。牛久宿助郷村。谷田部藩領。 人口は2005(平成17)年124人、2010(平成22)年111人、2015(平成27)年99人、2020(令和2)年92人。
研究学園(けんきゅうがくえん)
 つくばエクスプレスの沿線開発に伴いつくば市面野井、苅間などの一部を住居表示を変更した。1丁目から7丁目まである。 人口は、現在の住居表示による統計前2010(平成22)年は、 東平塚研究学園602人、下平塚研究学園338人、苅間研究学園2,723人、葛城根崎研究学園163人、面野井研究学園2人。 研究学園1丁目が2015(平成27)年10人、2020(令和2)年8人。 研究学園2丁目が2015(平成27)年467人、2020(令和2)年771人。 研究学園3丁目が2015(平成27)年462人、2020(令和2)年1,148人。 研究学園4丁目が2015(平成27)年1,590人、2020(令和2)年2,231人。 研究学園5丁目が2015(平成27)年2,487人、2020(令和2)年2,390人。 研究学園6丁目が2015(平成27)年1,547人、2020(令和2)年1,577人。 研究学園7丁目が2015(平成27)年1,233人、2020(令和2)年1,337人。
研究学園の街並み
研究学園の街並み
高野台(こうやだい)
 観音台の南側。国道408号沿い。筑波研究学園都市の建設(下横場土地区画整理事業)に伴い 1974(昭和49)年、谷田部町下横場、谷田部、市之台、館野、南中妻、北中妻の各一部の住居表示を変更した。1〜3丁目がある。 名前の由来は高野山あるいは鷹野山と呼ばれた地名があったことからという。 人口は高野台1丁目が2005(平成17)年1人、2010(平成22)年1人。 高野台2丁目が2005(平成17)年885人、2010(平成22)年937人、2015(平成27)年1,026人、2020(令和2)年1,091人。 高野台3丁目が2005(平成17)年935人、2010(平成22)年982人、2015(平成27)年1,201人、2020(令和2)年1,136人。
小白硲(こじらはざま)
 谷田部の北側。大白硲の南側。江戸時代初期は苅間郷の一部で新治郡白硲村。 1625(寛永2)年の検地で白硲村から分村、小白硲村と称した。白硲村はのちに大白硲村に改称。 人口は2005(平成17)年811人、2010(平成22)年920人、2015(平成27)年978人、2020(令和2)年992人。
西郷(さいごう)
 西大橋の南側。筑波研究学園都市の建設に伴い1977(昭和52)年、谷田部町西大橋、苅間の各一部の住居表示を変更した。 人口は2005(平成17)年66人、2010(平成22)年82人、2015(平成27)年97人、2020(令和2)年90人。
境田(さかいだ)
 谷田部の南側。古くは筑波郡境田新田村、元禄年間(1688〜1704年)に境田村に改称。 人口は2005(平成17)年249人、2010(平成22)年225人、2015(平成27)年222人、2020(令和2)年183人。
境松(さかいまつ)
 旧谷田部町の南端。古くは河内郡境松新田村、天保年間(1830〜43年)、境松村に改称、同時に筑波郡に移る。 人口は2005(平成17)年171人、2010(平成22)年172人、2015(平成27)年167人、2020(令和2)年160人。
(しま)
 手代木の西側。古くは苅間郷。江戸時代の正保年間(1645〜48年)から元禄年間(1688〜1704年)にかけて新治郡島村として独立。 人口は2005(平成17)年80人、2010(平成22)年96人、2015(平成27)年106人、2020(令和2)年91人。
島名(しまな)
 谷田部の北側。平安時代の「和名抄」に河内郡七郷のひとつとして「嶋名郷」とある。江戸時代は筑波郡島名村。 人口は2005(平成17)年1,584人、2010(平成22)年1,574人、2015(平成27)年1,520人、2020(令和2)年1,513人。
下萱丸(しもかやまる)
 みどりの駅周辺。国道354号南側。江戸時代は筑波郡萱丸村。明治初年に分村し筑波郡下萱丸村。 人口は2005(平成17)年74人、2010(平成22)年70人、2015(平成27)年75人、2020(令和2)年75人。
下河原崎(しもかわらざき)
 島名の北側。江戸時代は筑波郡下河原崎村。 人口は2005(平成17)年245人、2010(平成22)年250人、2015(平成27)年243人、2020(令和2)年285人。
下原(しもはら)
 赤塚の東側。江戸時代は河内郡下原村。旗本由良氏領。 人口は2005(平成17)年215人、2010(平成22)年220人、2015(平成27)年211人、2020(令和2)年197人。
下平塚(しもひらつか)
 西平塚の南側。江戸時代は新治郡平塚村。明治初年頃分村し新治郡下平塚村。 人口は2005(平成17)年235人、2010(平成22)年295人、2015(平成27)年277人、2020(令和2)年298人。
下平塚案内板
鹿島神社脇に有る下平塚案内板
下別府(しもべっぷ)
 高須賀の東側。江戸時代は筑波郡下別府村。天領。 人口は2005(平成17)年140人、2010(平成22)年131人、2015(平成27)年128人、2020(令和2)年115人。
下横場(しもよこば)
 高野台の東側。地区内を茨城県道202号館野牛久線が通る。江戸時代は河内郡下横場村。谷田部藩領。 人口は2005(平成17)年379人、2010(平成22)年376人、2015(平成27)年339人、2020(令和2)年351人。
陣場(じんば)
 つくばエクスプレスの沿線開発に伴いつくば市谷田部の一部の住居表示を変更した。 人口は2010(平成22)年41人、2015(平成27)年764人、2020(令和2)年1,746人。
諏訪(すわ)
 つくばエクスプレスの沿線開発に伴いつくば市島名の一部の住居表示を変更した。 人口は2010(平成22)年は833人、2015(平成27)年は1,184人、2020(令和2)年1,456人。
台町(だいまち)
 土地区画整理事業の完成に伴いつくば市谷田部の一部の住居表示を変更した。同市谷田部の小字名に由来する。 2012(平成24)年6月1日つくば市台町1〜3丁目。 人口は台町1丁目が2015(平成27)年107人、2020(令和2)年125人。 台町2丁目が2015(平成27)年476人、2020(令和2)年491人。 台町3丁目が2015(平成27)年400人、2020(令和2)年441人。
(たいら)
 柳橋の西側、島名の東側。1594(文禄3)年の検地帳には「田中庄苅間之内平村御縄打水帳」とある。 古くは苅間郷。江戸時代の正保年間(1645〜48年)から元禄年間(1688〜1704年)にかけて新治郡平村として独立。 人口は2005(平成17)年119人、2010(平成22)年117人、2015(平成27)年112人、2020(令和2)年98人。
高須賀(たかすか)
 上郷の南側。地区内を茨城県道133号赤浜谷田部線が通る。戦国時代、佐竹氏文書に「たかすか」の記述がある。 江戸時代は筑波郡高須賀村、麻生藩領を経て天領。 人口は2005(平成17)年673人、2010(平成22)年634人、2015(平成27)年578人、2020(令和2)年499人。
高田(たかた)
 島名の北側。江戸時代は筑波郡高田村。谷田部藩領。 人口は2005(平成17)年109人、2010(平成22)年95人、2015(平成27)年81人、2020(令和2)年81人。
鷹野原(たかのはら)
 高野台の南側。 人口は2005(平成17)年69人、2010(平成22)年77人、2015(平成27)年94人、2020(令和2)年88人。
高山(たかやま)
 つくばエクスプレスの沿線開発に伴い、2010(平成22)年4月1日、つくば市上河原崎、下河原崎の一部の住居表示を変更した。 人口は2015(平成27)年8人、2020(令和2)年78人。
高良田(たからだ)
 高須賀の西側。小貝川の左岸。1886(明治19)年、上新田村と下新田村が合併し高良田村となる。 人口は2005(平成17)年487人、2010(平成22)年488人、2015(平成27)年459人、2020(令和2)年430人。
館野(たての)
 小野川の南側。地区内を国道354号が横断する。江戸時代は河内郡館野村。谷田部藩領。荒川沖宿助郷村。 人口は2005(平成17)年429人、2010(平成22)年422人、2015(平成27)年417人、2020(令和2)年404人。
手代木(てしろぎ)
 国道408号沿い。国道408号を挟んで松代と接する。江戸時代は河内郡手代木村。谷田部藩領。荒川沖宿助郷村。 人口は2005(平成17)年492人、2010(平成22)年580人、2015(平成27)年679人、2020(令和2)年695人。
中内(なかうち)
 小野川の西側。江戸時代は河内郡中内村。 人口は2005(平成17)年165人、2010(平成22)年155人、2015(平成27)年169人、2020(令和2)年160人。
中野(なかの)
 谷田部の西側。古くは中村新田、江戸時代の正保年間(1645〜48年)から元禄年間(1688〜1704年)までに中野新田村に改称、 さらに天保年間(1830〜43年)には中野村に改称した。 人口は2005(平成17)年216人、2010(平成22)年232人、2015(平成27)年238人、2020(令和2)年173人。
中別府(なかべっぷ)
 上河原崎の西側。江戸時代は筑波郡中別府村。天領。 人口は2005(平成17)年525人、2010(平成22)年556人、2015(平成27)年560人、2020(令和2)年571人。
長峰(ながみね)
 東の西側。筑波研究学園都市の建設に伴い1978(昭和53)年、谷田部町館野、上原、西大沼、赤塚、小野崎の各一部の住居表示を変更した。 人口は2005(平成17)年人、2010(平成22)年人、2015(平成27)年人、2020(令和2)年人。
鍋沼新田(なべぬましんでん)
 真瀬の北側。1722(享保7)年から行われた幕府の山田沼干拓により成立。筑波郡。 人口は2005(平成17)年362人、2010(平成22)年284人、2015(平成27)年298人、2020(令和2)年260人。
西大沼(にしおおぬま)
 小野崎と松代の間にある。江戸時代は河内郡大沼村。明治初年頃、同じ郡内に同名の村=現稲敷市東大沼=があったため「西」をつけ西大沼村とした。 人口は2005(平成17)年261人、2010(平成22)年270人、2015(平成27)年334人、2020(令和2)年347人。
西大橋(にしおおはし)
 中央部を蓮沼川が流れる。江戸時代は新治郡大橋村。明治初年頃、同じ郡内に同名の村=現石岡市東大橋=があったため「西」をつけ西大橋村とした。 人口は2005(平成17)年203人、2010(平成22)年204人、2015(平成27)年192人、2020(令和2)年192人。
西岡(にしおか)
 西大橋の南側。江戸時代は新治郡岡村。明治初年頃、同じ郡内に同名の村=現つくば市東岡=があったため「西」をつけ西岡村とした。 人口は2005(平成17)年197人、2010(平成22)年186人、2015(平成27)年190人、2020(令和2)年207人。
西栗山(にしくりやま)
 みどりの駅周辺。江戸時代は筑波郡栗山村。明治初年頃、同じ郡内に同名の村=現つくばみらい市東栗山=があったため「西」をつけ西栗山村とした。 人口は2005(平成17)年95人、2010(平成22)年95人、2015(平成27)年98人、2020(令和2)年69人。
西原(にしはら)
 学園の森北側。筑波研究学園都市の建設に伴い1978(昭和53)年、谷田部町西平塚、東平塚などの各一部の住居表示を変更した。地名は西平塚の小字名に由来する。
西平塚(にしひらつか)
 東平塚の西側。学園西大通りと平塚通りの交差点周辺。蓮沼川右岸。江戸時代は新治郡平塚村。明治初年頃分村し新治郡西平塚村。 人口は2005(平成17)年137人、2010(平成22)年123人、2015(平成27)年112人、2020(令和2)年101人。
二の宮(にのみや)
 研究学園地区。南大通り南側、学園西大通り沿い。筑波研究学園都市の建設に伴い谷田部町赤塚、小野崎、松野木、倉掛などの一部の住居表示を変更した。 1977(昭和52)年、二の宮1丁目、1978(昭和53)年、二の宮2〜4丁目が成立。 人口は二の宮1丁目が2005(平成17)年1,671人、2010(平成22)年1,933人、2015(平成27)年2,344人、2020(令和2)年2,400人。 二の宮2丁目が2005(平成17)年1,254人、2010(平成22)年1,218人、2015(平成27)年1,469人、2020(令和2)年1,364人。 二の宮3丁目が2005(平成17)年989人、2010(平成22)年1,156人、2015(平成27)年1,378人、2020(令和2)年1,396人。 二の宮4丁目が2005(平成17)年2,722人、2010(平成22)年2,551人、2015(平成27)年2,558人、2020(令和2)年2,440人。
根崎(ねさき)
 境松の北側。江戸時代は最初根崎新田村といい、元禄年間(1688〜1704年)以降、筑波郡根崎村と改称。谷田部藩領。 人口は2005(平成17)年69人、2010(平成22)年64人、2015(平成27)年55人、2020(令和2)年53人。
八幡台(はちまんだい)
 柳橋の南側。筑波研究学園都市の建設に伴い1975(昭和50)年、谷田部町柳橋、大白硲の各一部の住居表示を変更した。
花島新田(はなしましんでん)
 みどりの駅周辺。大部分がつくばエクスプレス沿線開発地区。江戸時代の元禄年間(1688〜1704年)に栗山村から分村。筑波郡。 人口は2005(平成17)年60人、2010(平成22)年94人、2015(平成27)年69人、2020(令和2)年48人。
羽成(はなれ)
 谷田部の南東。地区内を茨城県道19号取手つくば線、茨城県道143号谷田部牛久線が通る。江戸時代は筑波郡羽成村。谷田部藩領。 人口は2005(平成17)年414人、2010(平成22)年412人、2015(平成27)年389人、2020(令和2)年355人。
(はら)
 苅間の南側、松代の北側。土浦学園線沿い。江戸時代は河内郡原村。谷田部藩領から天領。明治初年に上原村を分村。 人口は2005(平成17)年19人、2010(平成22)年30人、2015(平成27)年28人、2020(令和2)年30人。
万博公園西(ばんぱくこうえんにし)
 つくばエクスプレスの沿線開発に伴い、2010(平成22)年4月1日、つくば市島名の一部の住居表示を変更した。 人口は2010(平成22)年4人、2015(平成27)年133人、2020(令和2)年797人。
(ひがし)
 筑波研究学園都市の建設に伴い谷田部町赤塚、小野崎、館野、下原などの一部の住居表示を変更した。1978(昭和53)年、東1、2丁目成立。 人口は東1丁目が2005(平成17)年14人、2010(平成22)年12人、2015(平成27)年12人、2020(令和2)年14人。 2丁目が2005(平成17)年1,999人、2010(平成22)年2,060人、2015(平成27)年2,205人、2020(令和2)年2,164人。
東新井(ひがしあらい)
 研究学園地区。土浦学園線南側、南大通り北側、学園西大通り沿い。 筑波研究学園都市の建設に伴い、1977(昭和52)年、谷田部町小野崎などの一部の住居表示を変更した。 人口は2005(平成17)年1,234人、2010(平成22)年1,573人、2015(平成27)年1,824人、2020(令和2)年1,740人。
東平塚(ひがしひらつか)
 西平塚の東側。主に学園西大通りと平塚通りに挟まれた地域。蓮沼川の左岸。江戸時代は新治郡平塚村。明治初年頃分村し新治郡東平塚村。 人口は2005(平成17)年503人、2010(平成22)年552人、2015(平成27)年483人、2020(令和2)年482人。
東丸山(ひがしまるやま)
 谷田部の南側、房内の北側。谷田川右岸。 江戸時代は筑波郡丸山村。明治初年頃、同じ郡内に同名の村=現つくばみらい市西丸山=があったため「東」をつけ東丸山村とした。 人口は2005(平成17)年98人、2010(平成22)年86人、2015(平成27)年93人、2020(令和2)年75人。
藤本(ふじもと)
 上横場の東側、国道408号沿い。筑波研究学園都市の建設に伴い1975(昭和50)年、谷田部町上横場、榎戸の各一部の住居表示を変更した。 果樹研究所がある。 人口は2005(平成17)年人、2010(平成22)年人、2015(平成27)年人、2020(令和2)年人。
古館(ふるだて)
 西谷田川の右岸、境田の西側に位置する。古くは古館新田村。元禄年間(1688〜1704年)以降、筑波郡古館村。谷田部藩領。 人口は2005(平成17)年151人、2010(平成22)年141人、2015(平成27)年102人、2020(令和2)年82人。
真瀬(ませ)
 旧谷田部町の南西部。小貝川の左岸に広がる。地区内を国道354号と茨城県道45号つくば真岡線が通る。 地区内に富士見丘団地がある。 江戸時代は筑波郡真瀬村。谷田部藩領。 人口(富士見丘を除く)は2005(平成17)年1,621人、2010(平成22)年1,644人、2015(平成27)年1,610人、2020(令和2)年1,450人。 富士見丘団地は2005(平成17)年582人、2010(平成22)年637人、2015(平成27)年612人、2020(令和2)年587人。
松代(まつしろ)
 研究学園地区。国道408号東側、土浦学園線(国道408号)南側。 筑波研究学園都市の建設に伴い旧谷田部町小野崎、苅間、手代木などの一部の住居表示を変更した。1977(昭和52)年、松代1〜5丁目。 人口は松代1丁目が2005(平成17)年1,355人、2010(平成22)年1,551人、2015(平成27)年1,797人、2020(令和2)年1,776人。 松代2丁目が2005(平成17)年1,056人、2010(平成22)年1,054人、2015(平成27)年1,116人、2020(令和2)年1,104人。 松代3丁目が2005(平成17)年2,134人、2010(平成22)年1,864人、2015(平成27)年2,447人、2020(令和2)年2,480人。 松代4丁目が2005(平成17)年2,140人、2010(平成22)年2,081人、2015(平成27)年1,760人、2020(令和2)年1,588人。 松代5丁目が2005(平成17)年1,697人、2010(平成22)年1,958人、2015(平成27)年1,160人、2020(令和2)年1,232人。
松野木(まつのき)
 小野崎の南側。江戸時代は河内郡松野木村。谷田部藩領。 人口は2005(平成17)年302人、2010(平成22)年647人、2015(平成27)年845人、2020(令和2)年955人。
水堀(みずほり)
 島名の東側、御幸が丘に隣接する。江戸時代は筑波郡水堀村。 人口は2005(平成17)年129人、2010(平成22)年117人、2015(平成27)年108人、2020(令和2)年103人。
緑が丘(みどりがおか)
 谷田部の南側。住宅団地。筑波研究学園都市の建設に伴い、1978(昭和53)年、谷田部町谷田部、東丸山、境田、境松の各一部の住居表示を変更した。 人口は2005(平成17)年1,506人、2010(平成22)年1,385人、2015(平成27)年1,319人、2020(令和2)年1,217人。
みどりの
 みどりの駅の周辺開発。つくばエクスプレスの沿線開発に伴いつくば市真瀬の一部などの住居表示を変更した。 人口は、現在の住居表示による統計前の2010(平成22)年が上萱丸みどりの700人、下萱丸みどりの76人、花島新田みどりの761人、西栗山みどりの43人。 同じく2015(平成27)年は真瀬みどりの92人、上萱丸みどりの972人、下萱丸みどりの229人、花島新田みどりの1,173人、西栗山みどりの277人。 みどりの1丁目が2020(令和2)年2,898人。 みどりの2丁目が2020(令和2)年2,708人。
みどりの中央(みどりのちゅうおう)
 みどりの駅の周辺開発。つくばエクスプレスの沿線開発に伴いつくば市下萱丸の一部などの住居表示を変更した。 人口は2010(平成22)年65人、2015(平成27)年1,375人、2020(令和2)年3,029人。
みどりの東(みどりのひがし)
 みどりの駅の周辺開発。つくばエクスプレスの沿線開発に伴いつくば市古舘の一部などの住居表示を変更した。 人口は2015(平成27)年246人、2020(令和2)年1,262人。
みどりの南(みどりのみなみ)
 みどりの駅の周辺開発。つくばエクスプレスの沿線開発に伴いつくば市片田の一部などの住居表示を変更した。 人口は2010(平成22)年4人、2015(平成27)年91人、2020(令和2)年2,964人。
南中妻(みなみなかづま)
 国道408号沿い東側。国道408号を挟んで観音台と接する。茨城県道202号館野牛久線が地区内を通る。 江戸時代は河内郡南中妻村。谷田部藩領。牛久宿助郷村。 人口は2005(平成17)年505人、2010(平成22)年499人、2015(平成27)年497人、2020(令和2)年493人。
南中妻案内板
茨城県道201号館野牛久線沿いにある南中妻地区の案内板
御幸が丘(みゆきがおか)
 筑波西部工業団地。万博跡地。谷田部町面野井、水堀などが筑波西部工業団地の概成によって住居表示を変更した。 人口は2005(平成17)年1人。
柳橋(やぎはし)
 上横場の北側。サイエンス通り(茨城県道19号取手つくば線)が通る。 古くは苅間郷。江戸時代の正保年間(1645〜48年)から元禄年間(1688〜1704年)にかけて新治郡柳橋村として独立。 村名は戦国時代末期に帰農した柳橋氏から名付けられた。 人口は2005(平成17)年237人、2010(平成22)年276人、2015(平成27)年251人、2020(令和2)年226人。
谷田部(やたべ)
 東谷田川が中央部を流れる。地区内を国道354号が地区内を横断、茨城県道3号つくば野田線、茨城県道19号取手つくば線が通る。 平安時代の「和名抄」に河内郡七郷のひとつとして「八部郷」とある。また戦国時代の文書には「やたへ」「矢田部」の記述が見られる。 江戸時代は谷田部藩の陣屋があり城下町だった。明治時代には筑波郡役所が置かれた。 明治初年、いずれも筑波郡の内町村、新町村、台町村が合併し谷田部町となる。2012(平成24)年6月1日台町分離。 人口(瑞穂団地を除く)は2005(平成17)年6,422人、2010(平成22)年6,550人、2015(平成27)年5,677人、2020(令和2)年5,326人。 瑞穂団地が2005(平成17)年977人、2010(平成22)年1,099人、2015(平成27)年1,219人、2020(令和2)年1,333人。
谷田部の街並み
谷田部地区の街並み、鍵の字の道などが残る
山中(やまなか)
 筑波西部工業団地の東側。茨城県道19号取手つくば線が通る。中央部を蓮沼川が流れる。 古くは苅間郷。江戸時代の正保年間(1645〜48年)から元禄年間(1688〜1704年)にかけて新治郡山中村として独立。 人口は2005(平成17)年483人、2010(平成22)年621人、2015(平成27)年662人、2020(令和2)年693人。

桜地区の大字及び由来、歴史

 つくば市桜地区は、つくば市合併以前の旧桜村を範囲とする。
吾妻(あずま)
 研究学園地区、土浦学園線北側、東大通り沿い。つくば駅、つくばセンタービルなどがある。研究学園都市の中心部の一角。1丁目〜4丁目がある。 研究学園都市建設に伴い、1977(昭和52)年、桜村妻木、花室、倉掛及び谷田部町苅間の各一部の住居表示を変更した。 人口は吾妻1丁目が2005(平成17)年1,510人、2010(平成22)年1,192人、2015(平成27)年1,252人、2020(令和2)年2,114人。 吾妻2丁目が2005(平成17)年2,435人、2010(平成22)年2,354人、2015(平成27)年1,278人、2020(令和2)年300人。 吾妻3丁目が2005(平成17)年2,028人、2010(平成22)年1,811人、2015(平成27)年1,702人、2020(令和2)年1,937人。 吾妻4丁目が2005(平成17)年1,604人、2010(平成22)年2,114人、2015(平成27)年1,981人、2020(令和2)年1,752人。
天久保(あまくぼ)
 研究学園地区、学園北大通りの北側、平塚通り南側。筑波大学の校舎、学生宿舎、附属病院などがある。1丁目〜4丁目がある。 研究学園都市建設に伴い、1977(昭和52)年、桜村妻木及び谷田部町苅間、東平塚の各一部の住居表示を変更した。名称は妻木地区の小字名に由来する。 人口は天久保1丁目が2005(平成17)年566人、2010(平成22)年678人、2015(平成27)年769人、2020(令和2)年878人。 天久保2丁目が2005(平成17)年1,305人、2010(平成22)年1,454人、2015(平成27)年1,535人、2020(令和2)年1,623人。 天久保3丁目が2005(平成17)年1,339人、2010(平成22)年1,304人、2015(平成27)年1,222人、2020(令和2)年1,164人。 天久保4丁目が2005(平成17)年623人、2010(平成22)年666人、2015(平成27)年633人、2020(令和2)年565人。
上野(うえの)
 栗原の南側、東側は桜川を挟んで土浦市と接する。江戸時代は新治郡上野村。旗本堀氏領。 人口は2005(平成17)年229人、2010(平成22)年222人、2015(平成27)年228人、2020(令和2)年183人。
上ノ室(うえのむろ)
 土浦学沿線の南側。地区内を茨城県道123号土浦坂東線、茨城県道201号藤沢荒川沖線が通る。 鎌倉時代の文書に「上茂呂」、室町時代の文書には「上室郷」の表記が見られる。江戸時代は新治郡上室村。麻生藩領から土浦藩領。 人口は2005(平成17)年1,678人、2010(平成22)年1,751人、2015(平成27)年1,945人、2020(令和2)年2,024人。
梅園(うめぞの)
 学園東大通り沿い西側、国道354号線北側。1、2丁目がある。研究学園都市建設に伴い、1978(昭和53)年、 桜村大角豆と谷田部町赤塚の一部の住居表示をに変更した。産業技術総合研究所などがある 人口は梅園1丁目が2005(平成17)年8人、2010(平成22)年7人。 梅園2丁目が2005(平成17)年2,948人、2010(平成22)年3,040人、2015(平成27)年3,262人、2020(令和2)年3,181人。
(おお)
 松塚の南側、古来の北側で、東側は土浦市に接する。地区内で茨城県道24号土浦境線と茨城県道128号土浦大曽根線が交差する。 平安時代の「和名抄」に河内郡七郷のひとつとして「大村郷」とある。南北朝期の文書には「信太庄大村県」の記述がある。 江戸時代ははじめ信太郡大村。寛永年間(1625〜45年)から延宝年間(1673〜81年)からは新治郡。土浦藩領。 人口は2005(平成17)年379人、2010(平成22)年352人、2015(平成27)年409人、2020(令和2)年401人。
岡村新田(おかむらしんでん)
 妻木、東岡、花室に囲まれている。中央を花室川が流れる。江戸時代新治郡岡村=現つくば市東岡=の新田として誕生。 明治初年ごろに新治郡岡村新田。
上境(かみざかい)
 上野の南側、中根の北側に位置する。地区内を茨城県道128号土浦大曽根線が通る。 古くは境郷、境江(さかえ)村と呼ばれていた。江戸時代の初期には境村、正保年間(1645〜48年)から元禄年間(1688〜1704年)のころに上境村に改称した。 麻生藩と玉取村の相給、その後土浦藩領。 人口は2005(平成17)年328人、2010(平成22)年307人、2015(平成27)年300人、2020(令和2)年202人。
上広岡(かみひろおか)
 下広岡の北側。地区内を茨城県道123号土浦坂東線が横断する。地区内に野田団地がある。 江戸時代は新治郡広岡村。明治初年頃に上広岡村と下広岡村に分村した。 人口(野田団地を除く)は2005(平成17)年857人、2010(平成22)年888人、2015(平成27)年888人、2020(令和2)年910人。 野田団地が2005(平成17)年263人、2010(平成22)年263人、2015(平成27)年246人、2020(令和2)年222人。
吉瀬(きせ)
 上ノ室の東側に位置する。東は土浦市に接する。土浦学園線(茨城県道24号土浦境線)が横断する。 戦国時代の文書に「吉瀬」の記述がある。江戸時代は新治郡吉瀬村。麻生藩領から土浦藩領。 人口は2005(平成17)年440人、2010(平成22)年411人、2015(平成27)年393人、2020(令和2)年378人。
倉掛(くらかけ)
 学園東大通り沿い東側。竹園の南側、上ノ室の西側にある。江戸時代は新治郡倉掛村、蔵掛村とも書いた。旗本領。 人口は2005(平成17)年991人、2010(平成22)年1,141人、2015(平成27)年1,345人、2020(令和2)年1,400人。
栗原(くりはら)
 北は玉取、南側は上野、西側は天王台、東側は桜川を挟んで土浦市に接する。 平安時代の「和名抄」に筑波郡九郷のひとつとして「栗原郷」とある。江戸時代は新治郡栗原村。旗本領。 人口は2005(平成17)年1,614人、2010(平成22)年1,677人、2015(平成27)年1,636人、2020(令和2)年1,515人。
栗原
栗原の街並み
金田(こんだ)
 中根の南側。室町時代の文書に「金田」の記述が見られる。江戸時代は新治郡金田村。土浦藩領。 正保年間(1645〜48年)から元禄年間(1688〜1704年)のころに岡村=現つくば市東岡=を分村した。 人口は2005(平成17)年1,033人、2010(平成22)年1,117人、2015(平成27)年1,048人、2020(令和2)年927人。
妻木(さいき)
 学園東大通りの東側に広がる。地区内を茨城県道24号土浦境線が通る。江戸時代は新治郡妻木村、才木村とも書いた。 麻生藩領を経て府中(石岡藩)領と旗本領。 人口は2005(平成17)年771人、2010(平成22)年753人、2015(平成27)年774人、2020(令和2)年754人。
(さかえ)
 東西を中根と松塚に挟まれている。北側は桜川を挟んで土浦市。地区内を茨城県道201号藤沢荒川沖線が縦断する。 江戸時代は新治郡土器屋(かわらけや)村。土浦藩領。1889(明治22)年、栄村土器屋。 1955(昭和30)年、栄村が合併して桜村になる際、土器屋から栄に住居表示を変更した。 人口は2005(平成17)年423人、2010(平成22)年454人、2015(平成27)年420人、2020(令和2)年390人。
(さくら)
 栗原の南側、柴崎の北側。テクノパーク桜の概成に伴い、つくば市柴崎から分離し、つくば市桜1〜3丁目を新設した。 人口は桜1丁目が2005(平成17)年254人、2010(平成22)年258人、2015(平成27)年271人、2020(令和2)年724人。 桜2丁目が2005(平成17)年1,094人、2010(平成22)年1,130人、2015(平成27)年1,157人、2020(令和2)年1,134人。 桜3丁目が2005(平成17)年492人、2010(平成22)年442人、2015(平成27)年488人、2020(令和2)年538人。
さくらの森(さくらのもり)
 つくばエクスプレスの沿線開発に伴い、2011(平成23)年5月1日、つくば市柴崎、上境、金田、東岡の一部の住居表示を変更した。 人口は2020(令和2)年347人。
大角豆(ささぎ)
 並木の東側。広岡地区の西側。地区内を茨城県道201号藤沢荒川沖線が通る。 古くは大角豆房村。江戸時代の寛文年間(1661〜73年)から元禄年間(1688〜1704年)に新治郡大角豆村になった。府中(石岡)藩領。 人口は2005(平成17)年1,287人、2010(平成22)年1,468人、2015(平成27)年1,777人、2020(令和2)年1,981人。
柴崎(しばさき)
 上境の西側。地区内を茨城県道201号藤沢荒川沖線が通る。地区内に学園台セントラルタウンがある。 江戸時代は新治郡柴崎村。旗本領。 人口(学園台セントラルタウンを除く)は2005(平成17)年481人、2010(平成22)年575人、2015(平成27)年581人、2020(令和2)年573人。 学園台セントラルタウンが2005(平成17)年210人、2010(平成22)年231人、2015(平成27)年221人、2020(令和2)年214人。
下広岡(しもひろおか)
 大角豆の東側。つくば市の最東端。常磐自動車道桜土浦インターチェンジがある。 地区内に桜ニュータウンがある。 江戸時代は新治郡広岡村。明治初年頃に下広岡村と上広岡村に分村した。 人口は下広岡(桜ニュータウンを除く)が2005(平成17)年1,165人、2010(平成22)年1,182人、2015(平成27)年1,264人、 2020(令和2)年1,267人。 桜ニュータウンが2005(平成17)年1,537人、2010(平成22)年1,393人、2015(平成27)年1,345人、2020(令和2)年1,258人。
松栄(しょうえい)
 栄と松塚の間にある。松栄団地の概成により1975(昭和50)年、桜村松塚、横町、栄、中根、上境の各一部の住居表示を変更した。 人口は2005(平成17)年424人、2010(平成22)年424人、2015(平成27)年400人、2020(令和2)年398人。
千現(せんげん)
 研究学園地区、学園東大通り東側、学園南大通り南側。研究学園都市建設に伴い、桜村倉掛、大角豆などの一部の住居表示を変更した。 1977(昭和52)年、桜村千現1丁目、1978(昭和53)年、桜村千現2丁目。筑波宇宙センター、物質・材料研究機構がある。 人口は千現1丁目が2005(平成17)年1,260人、2010(平成22)年1,596人、2015(平成27)年1,829人、2020(令和2)年1,745人。 千現2丁目が2005(平成17)年668人、2010(平成22)年781人、2015(平成27)年870人、2020(令和2)年790人。
竹園(たけぞの)
 研究学園地区、土浦学園線南側、東大通り沿い両側。研究学園都市建設に伴い、桜村花室などの一部の住居表示を変更にした。同地区の小字名に由来する。 1977(昭和52)年、桜村竹園1、2丁目、1978(昭和53)年、桜村竹園3丁目。 人口は竹園1丁目が2005(平成17)年797人、2010(平成22)年2,008人、2015(平成27)年2,785人、2020(令和2)年3,528人。 竹園2丁目が2005(平成17)年1,128人、2010(平成22)年1,068人、2015(平成27)年1,170人、2020(令和2)年1,241人。 竹園3丁目が2005(平成17)年2,195人、2010(平成22)年2,249人、2015(平成27)年1,923人、2020(令和2)年3,159人。
天王台(てんのうだい)
 研究学園地区、東大通り沿い、つくば平塚通り北側。桜村栗原、柴崎、妻木などの一部の住居表示を変更した。 1974(昭和49)年、桜村天王台3丁目、1977(昭和52)年、天王台1、2丁目。筑波大学の本部、校舎、学生宿舎などがある。 人口は天王台1丁目が2005(平成17)年4人、2010(平成22)年1人、2015(平成27)年5人。 天王台2丁目が2005(平成17)年79人、2010(平成22)年2人、2015(平成27)年51人、2020(令和2)年24人。 天王台3丁目が2005(平成17)年1人。 筑波大学生宿舎が2005(平成17)年2,342人、2010(平成22)年1,621人、2015(平成27)年2,381人、2020(令和2)年1,338人。 筑波大看護婦宿舎が2005(平成17)年162人、2010(平成22)年162人、2015(平成27)年153人、2020(令和2)年102人。
中根(なかね)
 金田の北側、東側は栄、西側は上境、北側は桜川を挟んで土浦市と接する。地区内を茨城県道128号土浦大曽根線、茨城県道201号藤沢荒川沖線が通る。 江戸時代は新治郡中根村。玉取藩領、天領などを経て土浦藩領。 人口は2005(平成17)年777人、2010(平成22)年750人、2015(平成27)年760人、2020(令和2)年757人。
中根の街並み
中根の街並み
並木(なみき)
 研究学園地区、学園東大通り東側。学園東大通りを挟んで千現、東、梅園と接する。 研究学園都市建設に伴い、桜村倉掛、大角豆の一部の住居表示を変更した。1977(昭和52)年、並木2〜4丁目、 1978(昭和53)年、並木1丁目。 人口は並木2丁目が2005(平成17)年1,769人、2010(平成22)年2,002人、2015(平成27)年1,872人、2020(令和2)年1,819人。 並木3丁目が2005(平成17)年1,423人、2010(平成22)年2,143人、2015(平成27)年2,180人、2020(令和2)年2,270人。 並木4丁目が2005(平成17)年2,527人、2010(平成22)年2,102人、2015(平成27)年1,582人、2020(令和2)年1,350人。
花園(はなぞの)
 花室の西側。花室の一部を土地区画整理事業の完成に伴い2010(平成22)年、住居表示を変更した。 人口は2010(平成22)年691人、2015(平成27)年1,077人、2020(令和2)年1,108人。
花室(はなむろ)
 土浦学園線沿い、吾妻、竹園の東側。2010(平成22)年花園地区を分離。 戦国時代の文書に「花むろ」の記述がある。江戸時代は新治郡花室村。土浦藩領。中村宿定助郷。 人口は2005(平成17)年899人、2010(平成22)年777人、2015(平成27)年644人、2020(令和2)年627人。
春風台(はるかぜだい)
 つくばエクスプレスの沿線開発に伴い、2011(平成23)年5月1日、つくば市上野、上境の一部の住居表示を変更した。 人口は2015(平成27)年487人、2020(令和2)年1,218人。
東岡(ひがしおか)
 東西南北を金田、妻木、花室、柴崎に囲まれている。地区内を茨城県道201号藤沢荒川沖線が通る。 江戸時代は新治郡岡村。明治初年頃、同じ郡内に同名の村=現つくば市西岡=があったため「東」をつけ東岡村とした。 人口は2005(平成17)年451人、2010(平成22)年382人、2015(平成27)年350人、2020(令和2)年341人。
古来(ふるく)
 土浦学園線沿い、花室の東側、周囲を金田、大、上ノ室、吉瀬に挟まれている。東側は土浦市に接する。 室町時代の文書に「古来郷」の記述がある。江戸時代は信太郡古来村。寛永年間(1624〜45年)から延宝年間(1673〜81年)に新治郡となる。 麻生藩領から土浦藩領。中村宿定助郷。 人口は2005(平成17)年610人、2010(平成22)年666人、2015(平成27)年697人、2020(令和2)年755人。
松塚(まつづか)
 栄の東側、大の北側、桜川を挟んで土浦市に接する。 江戸時代は新治郡松塚村。麻生藩領、天領、旗本領などを経て土浦藩領。 人口は2005(平成17)年327人、2010(平成22)年332人、2015(平成27)年374人、2020(令和2)年376人。
横町(よこまち)
 周囲を金田、大、栄に囲まれている。江戸時代は新治郡横町村。土浦藩領。 人口は2005(平成17)年160人、2010(平成22)年190人、2015(平成27)年236人、2020(令和2)年250人。
流星台(りゅうせいだい)
 つくばエクスプレスの沿線開発に伴い、2011(平成23)年5月1日、つくば市柴崎、金田、東岡の一部の住居表示を変更した。 人口は2020(令和2)年819人。

茎崎地区の大字及び由来、歴史

 つくば市茎崎地区は、つくば市合併以前の旧茎崎町を範囲とする。
あしび野(あしびの)
 谷田川の右岸、下岩崎の南側にある。宅地開発に伴い1980(昭和55)年、茎崎村下岩崎の一部の住居表示を変更した。 人口は2005(平成17)年438人、2010(平成22)年403人、2015(平成27)年362人、2020(令和2)年344人。
天宝喜(あまぼうき)
 茎崎地区の最東南部、稲荷川の左岸にある。東側は牛久市田宮町に接する。茨城県道46号野田牛久線が地区内を横断する。 天より降れる宝剣を得、里人が喜び祀ったという伝説から。江戸時代は河内郡天宝喜村で牛久藩領。水戸街道牛久宿定助郷村。 人口は2005(平成17)年268人、2010(平成22)年261人、2015(平成27)年251人、2020(令和2)年216人。
池の台(いけのだい)
 国道408号線沿い。1974(昭和49)年、区画整理事業により成立。畜産草地研究所がある。
池向(いけむかい)
 大井と樋の沢の間にある。 人口は2005(平成17)年267人、2010(平成22)年256人、2015(平成27)年239人、2020(令和2)年226人。
稲荷川(いなりがわ)
 その名の通り、稲荷川沿いの地名。
稲荷原(いなりはら)
 高崎と稲荷川を挟んである。地区内を茨城県道143号谷田部牛久線が通る。 人口は2005(平成17)年263人、2010(平成22)年257人、2015(平成27)年240人、2020(令和2)年237人。
梅ケ丘(うめがおか)
 上岩崎の北側。宅地開発に伴い茎崎村上岩崎の一部の住居表示を1977(昭和52)年に変更した。 人口は2005(平成17)年556人、2010(平成22)年524人、2015(平成27)年510人、2020(令和2)年460人。
大井(おおい)
 茎崎地区の最も東側。牛久市と境を接する。茨城県道202号館野牛久線が地区内を通る。 鎌倉時代の文書に「河内郡大井庄」とある。江戸時代は大井村で谷田部藩領。水戸街道牛久宿加助郷村。 人口は2005(平成17)年551人、2010(平成22)年525人、2015(平成27)年498人、2020(令和2)年486人。
大舟戸(おおふなと)
 西谷田川の左岸、上岩崎の南側、下岩崎の西側にある。地区内を茨城県道210号谷田部藤代線が縦断する。 人口は2005(平成17)年156人、2010(平成22)年163人、2015(平成27)年150人、2020(令和2)年132人。
小茎(おぐき)
 谷田川と稲荷川の間にある。茨城県道46号野田牛久線が地区内を横断する。南側は牛久市に接する。 鎌倉時代の文書に「小茎郷」の記述が見られる。江戸時代は小茎村で牛久藩領。水戸街道牛久宿定助郷村。茎崎町時代は町役場があった。 人口は2005(平成17)年482人、2010(平成22)年488人、2015(平成27)年494人、2020(令和2)年505人。
小茎の街並み
小茎の街並み
上岩崎(かみいわさき)
 西谷田川の左岸にある。下岩崎の西側に位置する。地区内を茨城県道46号野田牛久線が横断、茨城県道210号谷田部藤代線が縦断する。 西谷田川には、上岩崎橋が架かる。河内郡岩崎上村。元禄年間(1688〜1704年)に上岩崎村に改称。 人口は2005(平成17)年653人、2010(平成22)年641人、2015(平成27)年634人、2020(令和2)年567人。
茎崎(くきざき)
 谷田川の右岸、茎崎橋の北側。西側は北が駒込、南を上岩崎、南側を下岩崎と接する。  人口は2005(平成17)年226人、2010(平成22)年202人、2015(平成27)年207人、2020(令和2)年193人。
九万坪(くまんつぼ)
 谷田川の左岸、六斗の北側にある。旧庄兵衛新田。 人口は2005(平成17)年139人、2010(平成22)年154人、2015(平成27)年160人、2020(令和2)年156人。
駒込(こまごめ)
 谷田川の右岸にある。 人口は2005(平成17)年107人、2010(平成22)年99人、2015(平成27)年100人、2020(令和2)年107人。
小山(こやま)
 上岩崎の北側にある。地区内を茨城県道210号谷田部藤代線が縦断する。 人口は2005(平成17)年107人、2010(平成22)年110人、2015(平成27)年105人、2020(令和2)年135人。
桜が丘(さくらがおか)
 若栗の南側にある。宅地開発に伴い1978(昭和53)年、旧茎崎村若栗、高崎、小茎の一部の住居表示を変更した。 人口は2005(平成17)年1,114人、2010(平成22)年1,014人、2015(平成27)年945人、2020(令和2)年942人。
桜が丘の街並み
桜が丘の街並み
下岩崎(しもいわさき)
 谷田川下流の右岸側にある。茎崎橋の南側。上岩崎の東側に位置する。 河内郡岩崎下村。元禄年間(1688〜1704年)に下岩崎村に改称。江戸時代は天領、牛久藩領、旗本領などを経て、明治維新時は前橋藩領、旗本領。 1873(明治6)年岩崎小学校創立、1886(明治19)年、高崎尋常小学校下岩崎分教場。 人口は2005(平成17)年497人、2010(平成22)年476人、2015(平成27)年451人、2020(令和2)年402人。
自由ケ丘(じゆうがおか)
 下岩崎の南側。宅地開発に伴い1982(昭和57)年、旧茎崎村下岩崎の一部の住居表示を変更した。 人口は2005(平成17)年1,989人、2010(平成22)年1,888人、2015(平成27)年1,829人、2020(令和2)年1,746人。
自由ケ丘案内板
道路沿いにある自由ケ丘の案内板
城山(しろやま)
 高崎の南側、茨城県道210号谷田部藤代線が地区内を縦断。宅地開発に伴い1977(昭和52)年、茎崎村高崎の一部の住居表示を変更した。 人口は2005(平成17)年1,236人、2010(平成22)年1,143人、2015(平成27)年1,091人、2020(令和2)年993人。
菅間(すがま)
 稲荷川の左岸、高崎の北側にある。江戸時代は河内郡菅間村で、旗本由良氏領。 人口は2005(平成17)年236人、2010(平成22)年232人、2015(平成27)年229人、2020(令和2)年202人。
高崎(たかさき)
 稲荷川の左岸。地区の中央を、茨城県道143号谷田部牛久線が通る。 江戸時代は河内郡高崎村。牛久藩領。水戸街道牛久宿定助郷村。 人口は2005(平成17)年1,464人、2010(平成22)年1,458人、2015(平成27)年1,492人、2020(令和2)年1,463人。
高見原(たかみはら)
 高崎の東側にある。東は牛久市と境界をなす。高崎から住宅開発に伴い住居表示を変更した。1丁目から5丁目まである。 人口は高見原1丁目が2005(平成17)年1,610人、2010(平成22)年1,864人、2015(平成27)年1,978人、2020(令和2)年2,037人。 高見原2丁目が2005(平成17)年1,328人、2010(平成22)年1,350人、2015(平成27)年1,490人、2020(令和2)年1,411人。 高見原3丁目が2005(平成17)年1,024人、2010(平成22)年978人、2015(平成27)年1,000人、2020(令和2)年938人。 高見原4丁目が2005(平成17)年794人、2010(平成22)年782人、2015(平成27)年715人、2020(令和2)年705人。 高見原5丁目が2005(平成17)年544人、2010(平成22)年565人、2015(平成27)年551人、2020(令和2)年511人。
中山(なかやま)
 稲荷川の左岸、観音台の南側。 人口は2005(平成17)年271人、2010(平成22)年357人、2015(平成27)年375人、2020(令和2)年392人。
西大井(にしおおい)
 大井とは国道408号を挟んで西側にある。 人口は2005(平成17)年409人、2010(平成22)年424人、2015(平成27)年442人、2020(令和2)年425人。
西の沢(にしのさわ)
 稲荷川の右岸、若栗の南側にある。区画整理事業に伴い茎崎村高崎、若栗の一部の住居表示を変更した。
泊崎(はっさき)
 つくば市の最南端。牛久沼に半島状に突き出した突端部。 人口は2005(平成17)年214人、2010(平成22)年209人、2015(平成27)年208人、2020(令和2)年183人。
泊崎案内板
泊崎の道路沿いにある案内板
樋の沢(ひのさわ)
 国道408号沿い。茨城県道202号館野牛久線が地区内を通る。 江戸時代は河内郡樋ノ沢村。谷田部藩領。 人口は2005(平成17)年249人、2010(平成22)年247人、2015(平成27)年250人、2020(令和2)年251人。
樋の沢案内板
樋の沢の道路沿いにある案内板
富士見台(ふじみだい)
 泊崎地区内。宅地開発に伴い1985(昭和60)年、茎崎町下岩崎の一部の住居表示を変更した。 人口は2005(平成17)年698人、2010(平成22)年620人、2015(平成27)年547人、2020(令和2)年476人。
房内(ぼうち)
 谷田川の右岸にある。谷田川を挟んで若栗と接する。江戸時代は河内郡房内村。谷田部藩領。 人口は2005(平成17)年159人、2010(平成22)年138人、2015(平成27)年127人、2020(令和2)年118人。
宝陽台(ほうようだい)
 天宝喜の南側にある。南は牛久市と境界を接する。宅地開発に伴い1975(昭和50)年、茎崎村天宝喜、小茎の各一部の住居表示を変更した。 人口は2005(平成17)年1,548人、2010(平成22)年1,445人、2015(平成27)年1,331人、2020(令和2)年1,281人。
細見(ほそみ)
 西谷田川の左岸、自由ケ丘の南側にある。細見橋がある。 人口は2005(平成17)年153人、2010(平成22)年151人、2015(平成27)年132人、2020(令和2)年113人。
牧園(まきぞの)
 国道408号線沿い。高野台の南東側に位置する。筑波研究学園都市建設(下横場土地区画整理事業)に伴い、1974(昭和49)年、 茎崎村大井、谷田部町下横場、市之台の各一部の住居表示を変更した。 人口は2005(平成17)年545人、2010(平成22)年586人、2015(平成27)年685人、2020(令和2)年689人。
松の里(まつのさと)
 区画整理事業に伴い1977(昭和52)年、茎崎村高崎、大井の各一部の住居表示を変更した。 人口は2005(平成17)年1人。
明神(みょうじん)
 高見原の南側にある。天宝喜から住居表示を変更した。 人口は2005(平成17)年353人、2010(平成22)年316人、2015(平成27)年309人、2020(令和2)年292人。
森の里(もりのさと)
 谷田川の左岸、小茎の西側にある。研究学園都市建設に伴い1978(昭和53)年、茎崎村小茎、庄兵衛新田の各一部の住居表示を変更した。 人口は2005(平成17)年3,495人、2010(平成22)年3,308人、2015(平成27)年3,011人、2020(令和2)年2,806人。
森の里の街並み
森の里の街並み
六斗(ろくと)
 谷田川の左岸、小茎の西側にある。 人口は2005(平成17)年151人、2010(平成22)年159人、2015(平成27)年144人、2020(令和2)年132人。
若栗(わかぐり)
 谷田川の左岸にある。羽成の南側。茨城県道143号谷田部牛久線が地区中央を通る。 江戸時代は河内郡若栗村。谷田部藩領。水戸街道牛久宿加助郷差村。 人口は2005(平成17)年465人、2010(平成22)年485人、2015(平成27)年577人、2020(令和2)年513人。
若葉(わかば)
 稲荷川の右岸、観音台の南側にある。区画整理事業の概成に伴い1980(昭和55)年、茎崎村若栗、谷田部町羽成の各一部の住居表示を変更した。 人口は2005(平成17)年264人、2010(平成22)年286人、2015(平成27)年382人、2020(令和2)年417人。
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