つくばと筑波山の総合情報サイト!

MENU

筑波山

つくば近隣ガイド

広告

つくば市合併前の旧町村

 現在のつくば市を構成しているのは、旧筑波郡の旧筑波町、旧大穂町、旧豊里町、旧谷田部町と、旧新治郡の旧桜村、稲敷郡の旧茎崎町の6町村。 稲敷郡以外は、郡自体も無くなっている。ごみ収集が今でも旧町村単位の地区ごとに行われているほか、市役所の窓口センターも同様の地区ごとに置かれているなど、 合併から30年たった今でも、旧町村単位が出てくる。旧郡とともにその歴史を紹介する。
筑波町
 つくば市の最も北にあった町。筑波山のふもとに栄えた。合併前の面積は約77平方km、人口は22,860人(1985年国勢調査)、世帯数は5,476世帯(同)。 町の鳥「うぐいす」、町の花「つつじ」、町の木「さくら」だった。
 1872(明治4)年の廃藩置県の時、筑波町域には、筑波町、沼田村、国松村、(上)大島村、北条村、泉村、小泉村、君島村、 小田村、山口村、(北)太田村、小和田村、平沢村、(下)大島村、大形村、神郡村、臼井村、漆所村、小沢村、大貫村、杉木村、 田中村、水守村、山木村、上菅間村、中菅間村、池田村、洞下村、磯部村、作谷村、安食村、寺具村、明石村、高野原新田があった。
 1889(明治22)年、町村制施行とともに、筑波郡筑波町、筑波郡北条町、筑波郡小田村、筑波郡田井村、新治郡郡田水山村=のちに筑波郡、 筑波郡作岡村、筑波郡菅間村が発足。 昭和の大合併でまず、1955(昭和30)年、筑波町、北条町、田井村、小田村、田水山村が合併し、新しく筑波郡筑波町になった。 その後1956(昭和31)年9月30日作岡村、1957(昭和32)年7月1日に菅間村を編入合併し、筑波町域になる。
 1955(昭和30)年に行われた国勢調査の人口は、上記の通り合併途中で旧筑波町が20115人、作岡村3470人、菅間村2296人。 両村合併後の人口は25,881人。つくば市域では当時最も人口が多かった。以降こに人口を超えることなくつくば市合併となる。 1960(昭和35)年の国勢調査は23,817人、1965(昭和40)年の国勢調査は22,091人。 1970(昭和45)年の国勢調査は21,308人で、ここがボトムになる。 1975(昭和50)年には22,011人と増加に転じる、1980(昭和55)年には22,553人となる。 合併前最後の国勢調査となる1985(昭和60)年は上記参照。
 筑波町は、南側がほぼ全域で大穂町と接し、一部わずかに桜川を挟んで桜村と接していた。 東側は新治村(現土浦市)、八郷町(現石岡市)、北側は真壁町(現桜川市)、西側は明野町(現筑西市)、下妻市と接していた。
 1987(昭和62)年3月に廃線となるまで筑波鉄道が町を横断していた。当時の筑波駅は、現在筑波山口バスターミナルになっている。 国道125号が横断している。
筑波町合併記念碑
旧筑波町役場前にある筑波町のつくば市合併記念碑
筑波町歴代町長
初代 飯田茂(1955.3.19〜1959.3.5)
2代 遠藤重吉(1959.3.6〜1963.3.5)
3代 飯田茂(1963.3.6〜1965.2.26)
4代 宮本信三(1965.4.13〜1969.4.12)
5代 宮本信三(1969.4.13〜1972.11.29)
6代 原十郎(1973.1.21〜1977.1.20)
7代 堀田乾次郎(1977.1.21〜1981.1.20)
8代 堀田乾次郎(1981.1.21〜1985.1.20)
9代 井坂敦実(1985.1.21〜1988.1.30)
筑波町議会歴代議長
初代 小野安太郎(1955.2.14〜1956.1.31)
2代 遠藤高(1956.2.8〜1960.1.31)
3代 大関敬三(1960.2.12〜1963.6.20)
4代 肥田重三(1963.7.31〜1964.1.31)
5代 青木恒(1964.2.6〜1966.2.28)
6代 高瀬秋蔵(1966.3.1〜1968.1.31)
7代 山中一郎(1968.2.5〜1970.4.27)
8代 小野安太郎(1970.4.27〜1972.1.31)
9代 石浜秀吉(1972.2.8〜1976.1.31)
10代 楢戸明(1976.2.10〜1979.3.23)
11代 鈴木宏(1979.12.1〜1980.1.31)
12代 塙光男(1980.2.12〜1984.1.31)
13代 石川千之(1984.2.6〜1988.1.30)
筑波町(旧)
 1889(明治22)年の町村制施行で、筑波町、沼田村、国松村、上大島村が合併して誕生した町。 旧村名は大字名となり、役場は沼田に置かれた。
 1920(大正9)年の第1回国勢調査の人口は3,394人、世帯数は673。 その後の人口は国勢調査でみると1925(大正14)年、3,607人、1930(昭和5)年、3,630人、 1935(昭和10)年、3,661人、1940(昭和15)年、3,562人、1947(昭和22)年、4,449人、 合併前1950(昭和25)年の国勢調査の人口は4,190人。
筑波町道路元標
筑波山神社御神橋の前にある筑波町道路元標
北条町
 1889(明治22)年の町村制施行で、北条町、泉村、小泉村、君島村が合併して誕生した町。 旧北条町は、明治初年、北条内町、北条中町、北条新町が合併し北条村が成立、1887(明治20)年、北条町になった。
 1920(大正9)年の第1回国勢調査の人口は3,837人、世帯数は755。 その後の人口は国勢調査でみると1925(大正14)年、4,122人、1930(昭和5)年、4,508人、 1935(昭和10)年、4,643人、1940(昭和15)年、4,609人、1947(昭和22)年、5,876人、 合併前1950(昭和25)年の国勢調査の人口は5,602人。当時の筑波町地区では人口最大。
北条町道路元標
つくば道入口にある北条町道路元標
小田村
 1889(明治22)年の町村制施行で、小田村、山口村、北太田村、小和田村、平沢村、下大島村、大形村が合併して誕生した村。 役場は、1889(明治22)年から1935(昭和10)年まで、現在のつくば市小田の延寿院境内に置かれていた。
 1920(大正9)年の第1回国勢調査の人口は4,505人、世帯数は840。当時の筑波町地区では人口最大。 その後の人口は国勢調査でみると1925(大正14)年、4,561人、1930(昭和5)年、4,637人、 1935(昭和10)年、4,696人、1940(昭和15)年、4,652人、1947(昭和22)年、5,744人、 合併前1950(昭和25)年の国勢調査の人口は5,530人。
旧小田村役場碑
延寿院境内にある旧小田村役場碑
田井村
 1889(明治22)年の町村制施行で、神郡村、臼井村、漆所村、小沢村、大貫村、杉木村が合併して誕生した村。 役場は神郡に置かれた。村名は「万葉集」の高橋虫麻呂の「筑波嶺の裾廻の田井に秋田刈る妹がり遣らむ黄葉折らな」から。 1933(昭和8)年農山漁村経営更生計画モデル村指定。
 1920(大正9)年の第1回国勢調査の人口は2,433人、世帯数460人。 その後の人口は国勢調査でみると1925(大正14)年、2,488人、1930(昭和5)年、2,524人、 1935(昭和10)年、2,595人、1940(昭和15)年、2,519人、1947(昭和22)年、3,067人、 合併前1950(昭和25)年の国勢調査の人口は2,982人。
菅間村
 1889(明治22)年の町村制施行で、上菅間村、中菅間村、池田村、洞下村、磯部村が合併して誕生した村。 役場は中菅間に置かれた。村名は上菅間村、中菅間村が大村だったことから。
 1920(大正9)年の第1回国勢調査の人口は2,029人、世帯数349。 その後の人口は国勢調査でみると1925(大正14)年、2,052人、1930(昭和5)年、2,154人、 1935(昭和10)年、2,159人、1940(昭和15)年、2,184人、1947(昭和22)年、2,466人 合併前1950(昭和25)年の国勢調査の人口は2,426人。
作岡村
 1889(明治22)年の町村制施行で、作谷村、安食村、寺具村、明石村、高野原新田が合併して誕生した村。 村名は、中心となる作谷村の作とその他の村々が丘の方にあることから岡をつけ、作岡とした。
 1920(大正9)年の第1回国勢調査の人口は2,583人、世帯数は480。 その後の人口は国勢調査でみると1925(大正14)年、2,583人、1930(昭和5)年、2,751人、 1935(昭和10)年、2,754人、1940(昭和15)年、2,963人、1947(昭和22)年、3,687人、 合併前1950(昭和25)年の国勢調査の人口は3,642人。
田水山村
 1889(明治22)年の町村制施行で、西田中村、水守村、山木村が合併して誕生した村。村名は、田中、水守、山木の各村の頭文字の漢字を1字ずつとってつけられた。 はじめ新治郡、1896(明治29)年から筑波郡。
 1920(大正9)年の第1回国勢調査の人口は1,908人、世帯数は379。 その後の人口は国勢調査でみると1925(大正14)年、1,957人、1930(昭和5)年、2,034人、 1935(昭和10)年、2,146人、1940(昭和15)年、2,200人、1947(昭和22)年、2,648人、 合併前1950(昭和25)年の国勢調査の人口は2,701人。
大穂町
 筑波町の南側、豊里町の北側にあった町。合併前の面積は約34.01平方km(1987.11.1)、人口は13,550人(1985年国勢調査)、 世帯数は3,576世帯(同)。 町の鳥「ひばり」、町の花「かんな」、町の木「楠」だった。
 1872(明治4)年の廃藩置県の時、大穂町域には、大曽根村、玉取村、若森村、佐村、前野村、長高野村、篠崎村、蓮沼村、猿壁村、中根村、 上口ノ堀村、南口ノ堀村、弥平太村、大砂村、西高野村、吉沼村があった。 なお、猿壁、中根、上口ノ堀、南口ノ堀、弥平太の5村は1884(明治17)年に合併し要村となっている。
 1889(明治22)年の町村制施行で、新治郡大穂村、筑波郡吉沼村が誕生(要村は旭村と合併)。 1896(明治29)年に大穂村が筑波郡に移行。1953(昭和28)年町制施行し、筑波郡大穂町となる。 1953(昭和28)年、栗原村の一部(蓮沼地区)を編入、1955(昭和30)年旭村の一部(要地区)を編入。 1956(昭和31)年9月30日吉沼村を豊里町と分割合併、現在のつくば市吉沼、西高野、大砂地区が大穂町に入り、大穂町域となる。
 1955(昭和30)年に行われた国勢調査の人口は旧大穂町7,780人、旧吉沼村5,475人。 旧吉沼村の分村(田倉、上里地区を除く4,410人)合併後人口は12,190人。 1960(昭和35)年の国勢調査では11,334人、1965(昭和40)年の国勢調査は10,953人、 1970(昭和45)年の国勢調査は10,856人とここまでは緩やかに減少。 1975(昭和50)年には11,253人と上昇に転じ、1980(昭和55)年には12,608人と合併後最も人口が多くなる。 合併前最後の国勢調査となる1985(昭和60)年は上記参照。
 大穂町は、北側が筑波町、東側を桜村、南側の大部分が豊里町と一部を谷田部町、西側は、小貝川を挟んで、下妻市、千代川村(現下妻市)、石下町(現常総市)と接していた。
大穂町閉町記念碑
旧大穂町役場前にある大穂町閉町記念碑
大穂町歴代町長
初代 白井三郎(1953.4.1〜1955.4.21)
2代 吉村長左ヱ門(1955.4.30〜1959.4.29)
3代 吉村長左ヱ門(1959.4.30〜1963.2.4)
4代 成島甚吉(1963.2.5〜1965.7.25)
5代 吉村長左ヱ門(1965.8.28〜1968.5.17)
6代 中山勇(1968.6.30〜1972.6.29)
7代 稲葉勝行(1972.6.30〜1976.6.29)
8代 稲葉勝行(1976.6.30〜1980.6.29)
9代 稲葉勝行(1980.6.30〜1984.6.29)
10代 稲葉勝行(1984.6.30〜1987.11.29)
大穂町議会歴代議長
初代 柳町虎之助(1955.12〜1956.12)
2代 植村寅次郎(1957.1〜1957.12)
3代 柳町虎之助(1958.1〜1959.3)
4代 植村寅次郎(1959.4〜1959.11)
5代 久保谷明(1959.12〜1963.11)
6代 柳町睦吉(1963.12〜1967.11)
7代 根本善昌(1967.12〜1968.4)
8代 飯塚儀一(1970.2〜1971.11)
9代 大川淳(1971.12〜1975.11)
10代 沖山東吾(1975.12〜1979.11)
11代 中川三郎(1979.12.1〜1983.11)
12代 北島清吾(1983.12〜1987.11)
大穂村
 1889(明治22)年の町村制施行で、大曽根村、玉取村、若森村、佐村、前野村、篠崎村、長高野村が合併して誕生した村。 当時は新治郡だった。村名は、規模の大きい大曽根の「大」と、同じく玉取の旧名「方穂」の「穂」を合わせて大穂とした。 1896(明治29)年、筑波郡に移行。1953(昭和28)年4月1日、単独で町制施行した。
 1920(大正9)年の第1回国勢調査の人口は4,762人、世帯数は949。 その後の人口は国勢調査でみると1925(大正14)年、4,917人、1930(昭和5)年、5,241人、 1935(昭和10)年、5,378人、1940(昭和15)年、5,490人、1947(昭和22)年、6,588人、 合併前1950(昭和25)年の国勢調査の人口は6,518人。
大穂町制施行碑
つくば市大曽根にある大穂町制施行記念碑
吉沼村
 1889(明治22)年の町村制施行で、吉沼村、大砂村、西高野村、牛縊村、吉沼五人受が合併して誕生した村。
 1920(大正9)年の第1回国勢調査の人口は4,349人、世帯数は776。 その後の人口は国勢調査でみると1925(大正14)年、4,413人、1930(昭和5)年、4,721人、 1935(昭和10)年、4,826人、1940(昭和15)年、5,050人、1947(昭和22)年、5,953人、 合併前1950(昭和25)年の国勢調査の人口は5,737人。
豊里町
 つくば市の西側中央部にあった町。北側を大穂町、南側を谷田部町に挟まれていた。 合併前の面積は32.12平方km(1987.11.1)、人口は12,643人(1985年国勢調査)、世帯数は2,836世帯(同)。 旧6町村では、人口が最も少なかった。町の鳥は「きじばと」、町の花「やまゆり」、町の木「けやき」だった。 
 1872(明治4)年の廃藩置県の時、豊里町域には、上郷村、木俣村、手子生村、野畑村、沼崎村、今鹿島村、百家村、高野村、西酒丸村、遠東村、 西谷ヶ代村、中東村、西酒丸新田、中東原新田、牛縊村があった。
 1889(明治22)年の町村制施行で、筑波郡上郷村と筑波郡旭村(上記ほかのちに大穂町に編入する要村で構成)が誕生。 1953(昭和28)年には上郷村が町制施行し筑波郡上郷町に。1955(昭和30)年、上郷町が旭村(大字要を除く)と合併、筑波郡豊里町となる。 翌1956(昭和31)年9月30日、吉沼村を大穂町と分割合併、現在のつくば市田倉、上里地区が豊里町に入り、豊里町域になる。 また、1961(昭和36)年8月1日、谷田部町鬼ヶ窪の一部を編入する。
 1955(昭和30)年に行われた国勢調査の人口は11,129人。1956(昭和31)年、旧吉沼村の分村(田倉、上里地区1065人)合併後人口は12,194人。 1960(昭和35)年の国勢調査では11,165人、1965(昭和40)年の国勢調査は10,497人、 1970(昭和45)年の国勢調査は10,409人で、緩やかに減少。 1975(昭和50)年に10,898人と増加に転じ、1980(昭和55)年には11,473人となる。 合併前最後の国勢調査となる1985(昭和60)年は上記参照。
 豊里町は、北側から東側にかけて大穂町、南側から東側にかけて谷田部町、西側は小貝川を挟んで石下町(現常総市)、水海道市(現常総市)と接していた。
豊里町閉町碑
旧豊里町役場前にある豊里町閉町の碑
豊里町歴代町長
初代 初鹿野荘市(1955.4.1〜1955.4.30)
2代 土田右馬太郎(1955.5.1〜1959.4.30)
3代 久保田繁(1959.5.1〜1963.4.30)
4代 久保田繁(1963.5.1〜1967.4.30)
5代 比毛政章(1967.5.1〜1971.4.30)
6代 比毛政章(1971.5.1〜1975.4.30)
7代 比毛政章(1975.5.1〜1979.4.30)
8代 野堀豊定(1979.5.1〜1983.4.30)
9代 野堀豊定(1983.5.1〜1987.4.30)
10代 野堀豊定(1987.5.1〜1987.11.29)
豊里町議会歴代議長
初代 中野惣一(1955.4.1〜1955.11.30)
2代 久保田繁(1955.12.3〜1959.7.30)
3代 中野惣一(1959.12.15〜1960.11.3)
4代 坂入久次郎(1961.3.28〜1963.11.30)
5代 坂入久次郎(1963.12.3〜1965.12.20)
6代 大塚義明(1965.12.20〜1967.11.30)
7代 大塚義明(1967.12.2〜1971.11.30)
8代 伊藤謙吉(1971.12.2〜1975.11.30)
9代 小野村義明(1975.12.1〜1979.11.30)
10代 大塚義明(1979.12.3〜1983.11.30)
11代 古澤秀雄(1983.12.1〜1987.11.29)
豊里町役場案内
旧豊里町役場近くの交差点にある豊里町役場案内塔、当時の豊里町建設業協会の寄贈、 一番上に豊里町の町章がつけられている。その後つくば市役所豊里支所案内塔
上郷村
 1889(明治22)年の町村制施行で、上郷村、木俣村、手子生村、野畑村の4村が合併して発足した村。 1953(昭和28)年に単独で町制施行、上郷町となった。
 1920(大正9)年の第1回国勢調査の人口は4,248人、世帯数は751。 その後の人口は国勢調査でみると1925(大正14)年、4,426人、1930(昭和5)年、4,720人、 1935(昭和10)年、4,951人、1940(昭和15)年、4,968人、1947(昭和22)年、5,981人、 合併前1950(昭和25)年の国勢調査の人口は5,838人。
旭村
 1889(明治22)年の町村制施行で、沼崎村、今鹿島村、百家村、高野村、酒丸村=1884(明治17)年、西酒丸村、西谷ヶ代村、中東村が合併、遠東村、 土田村=1883(明治16)年3月5日、西酒丸新田改称、中東原新田、要村=1884(明治17)年、猿壁村、弥平太村、南口堀村、上口堀村、中根村が合併、 が合併して発足した村。村名は、9カ村合併であることから、九日村にし、それを1文字「旭」で表した。
 1920(大正9)年の第1回国勢調査の人口は4,948人、世帯数は926。現在のつくば市域で、当時人口が最大だった。 その後の人口は国勢調査でみると1925(大正14)年、5,014人、1930(昭和5)年、5,311人、 1935(昭和10)年、5,425人、1940(昭和15)年、5、749人、1947(昭和22)年、6,886人、 合併前1950(昭和25)年の国勢調査の人口は6,801人。1947(昭和22)年を除き、国勢調査の人口では昭和の大合併以前の現在のつくば市域で最大だった。
谷田部町
 つくば市の中央部から南部にかけてあった町。筑波郡の中心地として長く栄えた。江戸時代には谷田部藩が置かれていた。 藩主は、肥後(熊本県)細川家の分家。初代藩主は細川興元。 以降明治維新まで続いた。このため、城下町としての面影を残し、道も城下町特有の鍵の字になっている場所が残る。 城(陣屋)は現在の谷田部小学校の場所にあった。明治維新後は、長く筑波郡役所が陣屋跡に置かれていた。
 研究学園地区中心部の西側を占めていた。春日、二の宮、松代地区などは、それぞれ谷田部町春日、谷田部町二の宮、谷田部町松代だった。 合併前の面積は79.54平方km(1987.11.1)、人口は37,387人(1985年国勢調査)、世帯数は12,229世帯(同)。 合併した6町村では人口は2番目、面積は最も広かった。 町の鳥は「ひばり」、町の花は「菊」、町の木は「松」だった。
 1872(明治4)年の廃藩置県の時、谷田部町域には、谷田部町、上萱丸村、下萱丸村、島名村、苅間村、赤塚村、上横場村、下横場村、真瀬村、鬼ヶ窪村、 館野村、北中島村、稲岡村、下原村、上原村、新牧田村、梶内村、中内村、松野木村、大沼村、手代木村、今泉村、榎戸村、北中妻村、南中妻村、 市ノ台村、小野崎村、上飯田村、下飯田村、中野村、栗山村、片田村、根崎村(現つくば市根崎)、古館村、境田村、境松村、東丸山村、羽成村、花島新田、鍋沼新田、高須賀村、 上新田村、下新田村、高田村、水堀村、面野井村、中別府村、下別府村、上河原崎村、下河原崎村、宮本村、中北村、根崎村(現つくば市葛城根崎)、東平塚村、西平塚村、下平塚村、 大橋村、新井村、大白硲村、小白硲村、平村、柳橋村、山中村、島村、西岡村、原村があった。
 1889(明治22)年の町村制施行で、筑波郡谷田部町、筑波郡真瀬村、筑波郡島名村、河内郡小野川村、新治郡葛城村が発足。 1896(明治29)年、新治郡葛城村と河内郡小野川村が筑波郡に移行する。 昭和の大合併で1955(昭和30)年、これらの町村が合併、筑波郡谷田部町になる。
 同年行われた国勢調査での人口は22,048人。1960(昭和35)年の国勢調査では20,570人、 1965(昭和40)年の国勢調査は20,093人。1970(昭和45)年の国勢調査は20,134人で、わずか41人ではあるが増加に転じた。 1975(昭和50)年には22,225人、1980(昭和55)年には29,405人と増加する。 合併前最後の国勢調査となる1986(昭和60)年は上記参照。
 北側は大部分が豊里町、一部大穂町、東側は桜村、土浦市、牛久市、南側は茎崎村、 西側は水海道市(現常総市)、伊奈町(現つくばみらい市)、谷和原村(現つくばみらい市)と接していた。
谷田部町解散記念碑
旧谷田部町役場前にある谷田部町解散記念碑
谷田部町歴代町長
初代 飯泉一三(1955.5.12〜1959.2.14)
2代 沼尻民平(1959.3.3〜1963.3.2)
3代 飯泉一三(1963.3.3〜1967.3.2)
4代 宮本福晃(1967.3.3〜1969.5.6)
5代 横田栄一(1969.6.22〜1973.6.21)
6代 横田栄一(1973.6.22〜1977.6.21)
7代 横田栄一(1977.6.22〜1977.9.5)
8代 沼尻民平(1977.10.16〜1981.10.15)
9代 沼尻民平(1981.10.16〜1985.10.15)
10代 沼尻民平(1985.10.16〜1986.8.20)
11代 木村操(1986.9.14〜1987.11.29)
谷田部町議会歴代議長
初代 山口清(1955.3.31〜1955.12.31)
2代 長瀬健寿(1956.1.1〜1962.1.12)
3代 宮本福晃(1962.1.12〜1966.1.17)
4代 梶山英雄(1966.1.18〜1967.12.31)
5代 斎藤弥四郎(1968.1.11〜1971.12.31)
6代 木村操(1972.1.11〜1979.12.31)
7代 鈴木力三(1980.1.10〜1982.8.14)
8代 高野輝雄(1982.9.16〜1983.12.31)
9代 中根直衛(1984.1.10〜1986.1.10)
10代 沼尻舜吉(1986.1.10〜1987.11.29)
谷田部町(旧)
 1889(明治22)年の町村制施行で、谷田部町、東丸山村、羽成村、花島新田、上萱丸村、下萱丸村、飯田村=上飯田村、下飯田村が合併、中野村、 西栗山村=栗山村改称、片田村、根崎村、古館村、境田村、境松村が合併して発足した町。
 町村制施行前の谷田部町は内町村、新町村、台町村が合併して明治初年頃成立。 1874(明治7)年に谷田部郵便局、1875(明治8)年谷田部小学校設立、1876(明治9)年に谷田部警察出張所が設けられている。 1879(明治11)年に筑波郡役所が置かれ、筑波郡の行政の中心地となった。 1889(明治22)年に合併した谷田部町の大字となる。
 1920(大正9)年の第1回国勢調査の人口は4,557人、世帯数は884。 その後の人口は国勢調査でみると1925(大正14)年、4,762人、1930(昭和5)年、4,988人、 1935(昭和10)年、5,230人、1940(昭和15)年、5,503人、1947(昭和22)年、7,037人で、現在のつくば市域で唯一7千人を超えトップとなった。 しかし最大の人口を誇ったのはこの年の調査のみ。 合併前1950(昭和25)年の国勢調査の人口は6,779人。
谷田部町道路元標
谷田部内町の交差点にある谷田部町道路元標
真瀬村
 1889(明治22)年の町村制施行で、真瀬村、高須賀村、高良田村=1886(明治19)年6月、上新田村、下新田村が合併、鍋沼新田、老田淵村、 新右衛門新田が合併して発足した村。
 1920(大正9)年の第1回国勢調査の人口は3,047人、世帯数は529。 その後の人口は国勢調査でみると1925(大正14)年、3,163人、1930(昭和5)年、3,217人、 1935(昭和10)年、3,313人、1940(昭和15)年、3,295人、1947(昭和22)年、3,864人、 合併前1950(昭和25)年の国勢調査の人口は3,823人。
島名村
 1889(明治22)年の町村制施行で、島名村、上河原崎村=1886(明治19)年9月17日、上河原崎村、宮本村、中北村が合併、下河原崎村、鬼ヶ窪村、中別府村、下別府村、 面ノ井村、水堀村、高田村が合併して発足した村。
 1920(大正9)年の第1回国勢調査の人口は2,912人、世帯数は497。 その後の人口は国勢調査でみると1925(大正14)年、2,987人、1930(昭和5)年、3,098人、 1935(昭和10)年、3,199人、1940(昭和15)年、3,217人、1947(昭和22)年、3,658人、 合併前1950(昭和25)年の国勢調査の人口は3,666人。
葛城村
 1889(明治22)年の町村制施行で、苅間村、大白硲村、小白硲村、東平塚村、西平塚村、下平塚村、根崎村、西大橋村=大橋村改称、新井村、平村、柳橋村、山中村、 島村、西岡村、原村が合併して発足した村。
 1920(大正9)年の第1回国勢調査の人口は2,359人、世帯数は449。 その後の人口は国勢調査でみると1925(大正14)年、2,351人、1930(昭和5)年、2,446人、 1935(昭和10)年、2,429人、1940(昭和15)年、2,448人、1947(昭和22)年、2,845人、 合併前1950(昭和25)年の国勢調査の人口は2,899人。
小野川村
 1889(明治22)年の町村制施行で、赤塚村、館野村、北中島村、稲岡村、下原村、上原村、新牧田村、梶内村、中内村、松野木村、西大沼村=大沼村改称、手代木村、 今泉村、榎戸村、北中妻村、南中妻村、市ノ台村、小野崎村、上横場村、下横場村が合併して発足した村。
 1920(大正9)年の第1回国勢調査の人口は3,695人、世帯数は711。 その後の人口は国勢調査でみると1925(大正14)年、3,762人、1930(昭和5)年、3,980人、 1935(昭和10)年、4,025人、1940(昭和15)年、4,294人、1947(昭和22)年、5,513人、 合併前1950(昭和25)年の国勢調査の人口は5,627人。
桜村
 つくば市の東側にあった村。研究学園地区中心部の東側半分を占め、合併前は日本で最も人口の多い「村」だった。 合併前の面積は34.95平方km(1987.11.1)、人口は41,335人(1985年国勢調査)、世帯数は14,910世帯(同)。 合併した6町村では人口が4万人を超えているのは唯一で最も多かった。
 1872(明治4)年の廃藩置県の時、桜村域には、上境村、土器屋村、横町村、金田村、松塚村、中根村、古来村、大村、吉瀬村、上ノ室村、 上広岡村、下広岡村、大角豆村、蔵掛村、妻木村、東岡村、岡村新田、花室村、柴崎村、栗原村、上野村があった。
 1889(明治22)年の町村制施行とともに新治郡栄村、新治郡九重村、新治郡栗原村の3村に統合された。 1955(昭和30)年、この栄村、九重村、栗原村が合併し、新治郡桜村が発足。 村の名称は、栄の「さ」、九重の九から「く」、栗原の「ら」を取って「さくら」、そして漢字の「桜」をあて桜村となった。
 同年実施された国勢調査の人口は9,763人。1960(昭和35)年の国勢調査では9,199人、 1965(昭和40)年の国勢調査は8,939人で9千人台を切る。1970(昭和45)年の国勢調査は8,942人で、わずか3人ではあるが増加に転じた。 1975(昭和50)年には14,814人と一気に1万4千人台となり、1980(昭和55)年には34,507人と倍増する。 合併前最後の国勢調査となる1985(昭和60)年は上記参照。
 現在の研究学園地区の中心部、吾妻、竹園、並木地区は、いずれも桜村吾妻、桜村竹園、桜村並木だった。筑波大学の住所は桜村天王台だった。 桜村は、北側を筑波町、大穂町、西側から南側にかけて谷田部町、東側を新治村(現土浦市)、東側から南側にかけて土浦市と接していた。
さようなら桜村記念碑
旧桜村役場前にあるさようなら桜村記念碑
桜村歴代村長
初代 横田守道(1955.8.28〜1959.8.27)
2代 藤沢勘兵衛(1959.8.28〜1963.8.27)
3代 藤沢勘兵衛(1963.8.28〜1967.8.27)
4代 横田文雄(1967.8.28〜1967.9.7)
5代 細田徳之助(1967.10.22〜1971.6.25)
6代 藤沢勘兵衛(1971.8.8〜1975.8.7)
7代 藤沢勘兵衛(1975.8.8〜1979.8.7)
8代 沼尻正男(1979.8.8〜1982.11.30)
9代 矢口幸次(1983.1.16〜1983.11.4)
10代 倉田弘(1983.12.11〜1987.11.29)
桜村議会歴代議長
初代 岡田節三(1955〜1956.1.31)
2代 酒井作衛(1956.3.5〜1960.2.2)
3代 倉田市左衛門(1960.2.26〜1963.6.20)
4代 酒井喜市(1964.3.3〜1968.2.25)
5代 倉田市左衛門(1968.3.1〜1970.2.28)
6代 矢口幸次(1970.3.1〜1971.8.8)
7代 天貝芳市(1971.9.9〜1972.2.24)
8代 片岡四郎(1972.2.28〜1980.2.27)
9代 細田壽郎(1980.2.28〜1987.11.29)
栄村
 1889(明治22)年の町村制施行で上境村、土器屋村、横町村、金田村、松塚村、中根村、古来村、大村、吉瀬村が合併して発足した村。 村の中心部である上境、土器屋、中根、横町、松塚が河内郡堺郷であったことから、転じて栄村とした。
 1920(大正9)年の第1回国勢調査の人口は3,024人、世帯数は597。 その後の人口は国勢調査でみると1925(大正14)年、3,098人、1930(昭和5)年、3,111人、 1935(昭和10)年、3,016人、1940(昭和15)年、2,980人、1947(昭和22)年、3,434人、 合併前1950(昭和25)年の国勢調査の人口は3,361人。
九重村
 1889(明治22)年の町村制施行で上ノ室村、上広岡村、下広岡村、大角豆村、蔵掛村、妻木村、東岡村、岡村新田、花室村、柴崎村が合併して発足した村。 岡村新田が花室村に合併され、9村の合併であることから九重村となった。
 1920(大正9)年の第1回国勢調査の人口は3699人、世帯数は734。 その後の人口は国勢調査でみると1925(大正14)年、3,754人、1930(昭和5)年、3,923人、 1935(昭和10)年、3,898人、1940(昭和15)年、3,913人、1947(昭和22)年、4,575人、 合併前1950(昭和25)年の国勢調査の人口は4,638人。
栗原村
 1889(明治22)年の町村制施行で栗原村、上野村、蓮沼村が合併して発足した村。 もともとこの地域が栗原郷であったことから栗原村となった。1953(昭和28)年6月15日、蓮沼地区が分村し大穂町に入った。
 1920(大正9)年の第1回国勢調査の人口は1908人、世帯数は410。 その後の人口は国勢調査でみると1925(大正14)年、1,910人、1930(昭和5)年、2,012人、 1935(昭和10)年、1,994人、1940(昭和15)年、1,947人、1947(昭和22)年、2,256人、 合併前1950(昭和25)年の国勢調査の人口は2,182人。
茎崎町
 つくば市の最南部にあった町。筑波研究学園都市を構成する6町村では、5町村合併後も唯一合併せず、最終的につくば市に合併したのはつくば市誕生の15年後、 2002(平成14)年になってからだった。隣接する牛久市から常磐線経由で、都心に通う労働者のベットタウンとして人口が増加していた。 このため、筑波研究学園都市への依存度が少ないことが、合併するのに時間がかかった要因のひとつとされる。
 1889(明治22)年の町村制施行とともに小茎村、高崎村、上岩崎村、下岩崎村、房内村、天宝喜村、若栗村、菅間村、大井村、樋ノ沢村、庄兵衛新田の一部が合併し河内郡茎崎村となる。 村内の主要な村々、小茎村の茎と高崎村、上岩崎村、下岩崎村の崎をとり、茎崎とした。 1896(明治29)年、河内郡と信太郡が合併し稲敷郡になったため稲敷郡茎崎村。
 1920(大正9)年の第1回国勢調査の人口は4612人、世帯数は847。 以降国勢調査をもとに人口推移を見る。1925(大正14)年、4,762人、1930(昭和5)年、4,973人、 1935(昭和10)年、5,126人、1940(昭和15)年、5,316人、1947(昭和22)年、6,716人、 そして1950(昭和25)年の国勢調査の人口は6,569人でこれが筑波研究学園都市の開発前のピーク、以降人口は減少する。 1955(昭和30)年、6,495人、1960(昭和35)年6,338人、1965(昭和40)年、6,253人でこれがボトムとなる。 1970(昭和45)年には6,461人と増加に転じ、1975(昭和50)年、8,305人、1980(昭和55)年、16,856人と前回の国勢調査と比較し倍増。 1985(昭和60)年に22,577人で2万人を突破、1990(平成2)年には25,070人、1995(平成7)年、26,315人。 合併前最後の国勢調査となる2000(平成12)年は下記参照。
 1983(昭和58)年1月1日付で町制を施行。 1989(明治22)年の市制、町村制施行以来、合併などを行わない町だった(茨城県内では現在も五霞町が合併を行っていない)。 合併前の面積は24.48平方km(2002.10.31)、人口は25,836人(2000年国勢調査)、世帯数は8345世帯(同)。 町の鳥は「よしきり」、町の花は「ひまわり」、町の木は「いちょう」だった。
 茎崎町は、北側が谷田部町、東側から南側にかけて牛久市、西側を伊奈町(現つくばみらい市)、南側は龍ケ崎市と接していた。
茎崎町閉町記念碑 茎崎村道路元標
旧茎崎町役場前にある茎崎町閉町記念碑(左)、旧茎崎町役場敷地内にある茎崎村道路元標(右)
旧茎崎村(町)歴代村(町)長
初代 小池幹三郎(1889.5.28〜1893.5.27)
2代 石山房之進(1893.5.28〜1897.5.27)
3代 石山岩吉(1897.6.7〜1898.4.23)
4代 石塚半右衛門(1898.7.23〜1899.12)
5代 石山房之進(1900.1.19〜1904.11.11)
6代 高橋治三郎(1905.2.25〜1909.2.24)
7代 柳田善吉(1909.3.4〜1913.12.7)
8代 柳田常治(1914.1.12〜1914.4.2)
9代 柴山籐一郎(1914.8.8〜1918.8.7)
10代 原藤三郎(1918.8.17〜1922.8.16)
11代 岡野長雄(1922.11.2〜1926.11.1)
12代 小池鬼子之助(1926.11.15〜1929.3.27)
13代 相沢千里(1929.8.16〜1932.9.10)
14代 柴山籐一郎(1933.12.25〜1936.10.16)
15代 野口清蔵(1937.8.13〜1941.8.12)
16代 相沢勘一郎(1942.1.28〜1946.1.27)
17代 岡野高雄(1946.4.5〜1947.4.17)
公選初代 成島宗四郎(1947.4.17〜1951.4.14)
2代 岡野高雄(1951.4.23〜1955.4.29)
3代 高野頴一郎(1955.4.30〜1959.4.29)
4代 小池正徳(1959.4.30〜1963.4.29)
5代 相沢千蔵(1963.4.30〜1967.4.29)
6代 染野籌一(1967.4.30〜1971.4.29)
7代 西村定義(1971.4.30〜1975.4.29)
8代 岡野精(1975.4.30〜1979.4.29) 
9代初代町長 岡野精(1979.4.30〜1983.4.29)
2代 岡野精(1983.4.30〜1986.11.11)
3代 石川玄蔵(1986.12.14〜1990.12.13)
4代 石川玄蔵(1990.12.14〜1994.12.13)
5代 寺田章(1994.12.14〜1998.12.13)
6代 栗原正光(1998.12.14〜2002.11.1)
人口
 1889(明治22)年、町村制施行とともに、発足したのは現在のつくば市域で、 いずれも筑波郡で、谷田部町、真瀬村、島名村、葛城村、小野川村、旭村、上郷村、大穂村、吉沼村、筑波町、北条町、小田村、田水山村、作岡村、菅間村、 田井村、同じくいずれも新治郡で栄村、九重村、栗原村、それに稲敷郡茎崎村の合わせて20町村。 その後昭和の大合併で筑波町、大穂町、豊里町、谷田部町、桜村、茎崎村を経てつくば市になるが、つくば市誕生前までの人口推移をみる。
 1920(大正9)年に行われた第1回国勢調査で、この20町村全てを合わせた人口は67,754人だった。 1925(大正14)年の国勢調査70,689人、1930(昭和5)年の国勢調査で71,228人、 1935(昭和10)年の国勢調査75,464人、1940(昭和15)年の国勢調査76,863人となる。 戦後初めて行われた国勢調査は1945(昭和20)年が中止となったことから1947(昭和22)年に臨時調査が行われている。 それによると94,243人で、引揚者もあってか国勢調査による人口の最初のピークとなり、以降筑波研究学園都市建設による人口増まで、減少の一途をたどる。 1950(昭和25)年の国勢調査は91,511人、昭和の大合併が実施された1955(昭和30)年の国勢調査は88,569人で9万人台を切る、 1960(昭和35)年の国勢調査は82,423人、1965(手話40)年の国勢調査で78,826人でついに8万人台をも切る、 1970(昭和45)年の国勢調査は78,110人で、この調査がボトムとなる。 1975(昭和50)年の国勢調査は89,506人で8万人台を回復、1980(昭和55)年には一気に増え127,402人で、12万人台まで到達する。 1985(昭和60)年、合併前最後の国勢調査は150,074人で15万人を突破している。
 各地域の人口を見ると1920(大正9)年に調査で最も人口が多かったのは旭村で4,948人、次いで大穂村4,762人、茎崎村4,612人、 4番目に谷田部町で4,557人、5番目が小田村4,505人、吉沼村4,349人、上郷村4,248人、北条町3,837人、九重村3,699人、 小野川村3,695人、そして11番目が筑波町3,394人となっている。 この順位は若干の変動はあるものの変わりはなく、昭和の大合併前の1950(昭和25)年の国勢調査による人口順位は、 1位が旭村で6,801人、2位谷田部町6,779人、3位茎崎村6,569人と続き、大穂村6,518人、上郷村5,838人、吉沼村5,737人 小野川村5,627人、北条町5,602人、小田村5,530人、九重村4,638人、筑波町4,190人となっている。
 昭和の大合併による6町村体制となった1955(昭和30)年の国勢調査を見ると最も人口が多いのは筑波町で25,881人、次いで谷田部町22,046人、 豊里町12,194人、大穂町12,190人とわずか4人差、桜村9,763人、茎崎村6,495人。 1960(昭和35)年の国勢調査で最も多いのは筑波町23,817人、次いで谷田部町20,570人、大穂町が3位に上がり11,334人、 豊里町11,165人、桜村9,199人、茎崎村6,338人でいずれの町村も人口を減らしている。 1965(昭和40)年の国勢調査、1970(昭和45)年の国勢調査とも順位に変動はないが、1965(昭和40)年では全ての町村が人口を減らしているのに対し、 1970(昭和45)年は谷田部町、桜村、茎崎村が上昇に転じた。 人口が増え始めた1975(昭和50)年の国勢調査では初めて谷田部町が1位で22,225人、筑波町22,011人、桜村が一気に3位となり14,814人、 大穂町11,253人、豊里町10,898人、茎崎村8,305人で全ての町村で人口増となった。 1980(昭和55)年の調査では桜村が1位となり34,507人、次いで谷田部町29,405人、筑波町22,553人、そして茎崎村が4位となり16,856人、 大穂町12,608人、豊里町11,473人。 つくば市誕生前の最後となる1985(昭和60)年の国勢調査では順位の変動はなく桜村が41,335人と4万人を突破、谷田部町も37,387人で3万人越え、 筑波町22,860人、大穂町13,550人、豊里町12,365人となっている。
 筑波研究学園都市建設以前の人口の最大の特徴は、際立った人口集中地区が無いこと。第1回の国勢調査では最も人口の多い旭村で4,948人、 最も少なかった田水山村、栗原村で1,908人、平均すると3,388人。
筑波郡
 つくば市合併以前の筑波町、大穂町、豊里町、谷田部町などが所属していた。筑波山の南麓に広がる郡で、南北に長く現在のつくば市の大部分を占める。
 1989(明治22)年の町村制施行とともに、谷田部町、北条町、筑波町の3町と20村が成立。郡役所は谷田部町に置かれた。 1896(明治29)年、新治郡大穂村、田水山村、葛城村、北相馬郡長崎村、河内郡小野川村が筑波郡に移行、筑波郡山の荘村が新治郡に移った。
 昭和の大合併で、筑波町、大穂町、豊里町、谷田部町、伊奈村、谷和原村が誕生し、長くこの4町2村時代が続いた。 その後1985(昭和60)年に伊奈村が町制施行、伊奈町となった。1987(昭和62)年のつくば市の誕生で大穂町、豊里町、谷田部町の3町が離脱、 翌1988(昭和63)年に筑波町がつくば市と合併し離脱した。 2005(平成17)年、伊奈町、谷和原村が合併し、つくばみらい市に移行したため、筑波郡は消滅した。
新治郡
 つくば市合併以前の桜村などが所属していた。筑波山の東側に広がる郡。現在のつくば市の東側の一部を占めていた。
 1889(明治22)年の町村制施行で、土浦町、真鍋町、石岡町、高浜町、柿岡町の5町と30村が誕生、郡役所は土浦町に置かれた。 1940(昭和15)年、土浦町、真鍋町が合併し土浦市が誕生、1953(昭和28)年に石岡町、高浜町が合併、 翌1954(昭和29)年に石岡市が誕生するなどして郡を離脱した。
 昭和の大合併で、桜村、出島村、千代田村、新治村、八郷町、玉里村が誕生、以降この1町5村時代が続く。 1987(昭和62)年、桜村がつくば市の誕生で離脱。残る町村は平成の大合併で、新治村は土浦市に、八郷町は石岡市に、それぞれ編入合併。 霞ヶ浦町(出島村が町制施行)、千代田町(千代田村が町制施行)は合併しかすみがうら市に、 残っていた玉里村は東茨城郡の小川町、美野里町と合併し小美玉市となって、新治郡は消滅した。
稲敷郡
 霞ヶ浦の南、利根川の北側に位置する郡。現在は阿見町、美浦村の1町1村で構成される。以前は、つくば市合併以前の旧茎崎町などが所属していた。
 1889(明治22)年の町村制施行で、龍ヶ崎町、江戸崎町、阿見村、牛久村、茎崎村などが誕生。当時は河内郡と信太郡に分かれていた。 1896(明治29)年に河内郡と信太郡が合併、稲敷郡となった。
 昭和の大合併で、江戸崎町、牛久町、阿見町、河内村、東村、桜川村、新利根村、美浦村、茎崎村の3町6村時代になる。 その後牛久町が市制を敷いて郡から離脱したほか、多くの村が町制へ移行している。
 平成の大合併で、茎崎町がつくば市に編入合併となったのをはじめ、江戸崎町、新利根町、東町、桜川村が合併し、稲敷市となった。 なお、阿見町と美浦村は霞南市となり、稲敷郡は消滅するはずだったが、住民投票で直前に破談、このため稲敷郡が存続することになった。
copyright © 2007-2024 つくば新聞 by tsukubapress.com all rights reserved.