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つくば市の歴史

■旧石器時代■
花室川のナウマン象
 1975(昭和50)年、えのき橋下流約75mの花室川河床(つくば市上広岡)から、ナウマンゾウの臼歯が発見された。 年代測定で、3万970年前の化石とされる。また、1977(昭和52)年には、発見地点から約1.5km上流で、臼歯が残る下顎骨が発見されている。 発見された地層は、緑青色泥質細粒破損層で、周囲の地表より約4.5m下になる。
 ナウマンゾウは、今から約30万円前から2万年前まで、日本国内に広く分布していたゾウの一種。 体長は約5〜6m、体高(肩高)は約2〜3mのゾウで、約1〜2mの牙があった。現在のアジアゾウに近く、それよりやや小型だった。 また、全身が毛で覆われていたと推定されている。
 つくば市から出土したナウマンゾウの化石は、つくば市にあるつくば市桜歴史民俗資料館、産業技術総合研究所地質標本館、坂東市の茨城県自然博物館で見ることが出来る。
花室川 ナウマンゾウ下顎臼歯の化石
つくば市上広岡付近の花室川(左)、茨城県自然博物館で展示されているつくば市の花室川で見つかったナウマンゾウ下顎臼歯の化石の複製(右)
■縄文・弥生時代■
 つくば市内には、この時代の多くの集落跡が残る。河川沿いは、当時、海の入り江となっていた場所も多く、ヤマトシジミ、オキシジミ、ムラサキガイなどの殻が出土する貝塚もある。 境松貝塚は、田倉貝塚と並び、つくば市内の代表的な貝塚。縄文時代中期から後期の土器が出土している。 谷田部地区の福田遺跡は、縄文時代中期から後期の遺跡で、土器とともに石鍬、石剣、石棒などが出土している。 また、真瀬地区の山田遺跡は市内最大規模の遺跡。縄文時代中期から晩期の土器や石器が出土している。
■古墳時代■
 つくば市内では、約200基の古墳が確認されている。 筑波山南麓は多くの古墳がある地域。沼田地区にある茨城県指定文化財の八幡塚古墳は、桜川流域でも最大規模の前方後円墳。 一方、市南部の下横場地区から南中妻地区に点在する下横場古墳群は、小野川沿いにある。1968(昭和43)年の調査で42基の円墳が確認された。 副葬品で、大正末期から昭和初期にかけて出土したと伝えられる楯を持つ人物埴輪はじめ、3体の人物埴輪が東京国立博物館の所蔵となっている。 
■飛鳥・奈良・平安時代■
筑波の由来
 「筑波」の由来については諸説があるが、5、6世紀、大和朝廷の東国進出に伴い、国造(くにのみやつこ)が設けられ、 筑簟命(つくはこのみこ)が初代国造と派遣され、その名をとって筑波の国となった説。 また、古代にはこの山のところまで海が来ており、「着波」(つくは)から「筑波」になったという説。 さらに、草木が繁茂する山なので「付葉」から「筑波」になったとする説などがある。 このほか、「チクハ」がなまって「ツクバ」となったとする説。チクハは「竹葉」「竹波」「竹穂」などが考えられる。 筑波山の近くの加波山が「樺穂山」、足尾山が「葦穂山」と呼ばれていることから、有力な説の一つとなっている。 なお、筑波の前は「紀の国」と呼ばれていた。
常陸国風土記と筑波山
 奈良時代の713(和銅6)年に編纂された『常陸国風土記』には、筑波郡のことや、富士の神、筑波の神の伝説などが記載されている。 この伝説は、祖神(おや神)が新嘗祭の夜に子の富士の神を訪ね一夜の宿を求めたが、富士の神は新嘗祭の特別な夜に親であっても入れることは出来ないと断った。 一方、同じく子の筑波の神を訪ね一夜の宿を求めると、特別な夜でもあるにもかかわらず快く迎え入れた。 これを祖神はおおいに喜び、筑波山は四季にかかわらず、草木が生い茂り、人々が集まる山に、富士山は草木も生えず、山頂には雪を頂く山になったという。
 常陸国風土記による筑波の郡は、現在のつくば市の北半分、旧筑波町、旧大穂町、旧豊里町と考えられている。その郡役所が平沢官衙遺跡。 南半分の旧谷田部町、旧桜村、旧茎崎町の範囲は河内の郡と見られるが、常陸風土記では河内の郡の部分が失われてしまっている。 郡役所は金田官衙遺跡と考えられている。なお、周囲は、筑波の郡の北側は旧真壁町周辺が白壁の郡、旧岩瀬町、旧下館市から笠間市周辺にかけてが新治の郡、 旧八郷町を含む石岡市、かすみがうら市、小美玉市、旧友部町周辺が茨城の郡で、ここには常陸国の役所・国衙が置かれてた。 東側は稲敷市、阿見町、美浦村、河内町、土浦市、龍ヶ崎市、牛久市の一部など霞ヶ浦南岸の広範囲な地域が信太の郡。 南側のつくばみらい市は、河内の郡。 なお、つくば市の西側は下総国で、下妻市、常総市が豊田郡、また南側で牛久沼を挟んで接する取手市が下総国の相馬郡であったと見られる。
平沢官衙遺跡
古代の郡役所があった平沢官衙遺跡
正倉院御物
 奈良県の東大寺にある正倉院に、筑波郡から当時の税金「調、庸」として納められた布4点が残っている。 ひとつは、幡鎮という仏具を入れる袋で、中に入っている幡鎮は、聖武天皇一周忌に用いられたものという。 「常陸国筑波郡」そして「天平宝字二年(758年)」の署名がある。このほか栗原郷から調として納められた白布などが残されている。
万葉集と筑波山
 7世紀後半から8世紀後半にかけて編纂された『万葉集』には、筑波山を詠んだ和歌が多数収められている。 その数25首とされ、富士山の11首と比較しても相当多い。当時としては、辺境の地ともいえる東国の山がこれだけ詠まれているのは、注目に値する。
 その影響もあってか、市内には多くの万葉の歌碑がある。有名なのは筑波山神社境内とテクノパーク大穂。
 このほか、小倉百人一首にも筑波山を詠んだ歌がある。 陽成院(陽成天皇)の詠んだ「筑波嶺の 嶺より落つる みなの川がは 恋ぞつもりて 淵となりぬる」で、筑波山梅林入口に歌碑がある。
万葉歌碑 百人一首歌碑
テクノパーク大穂にある筑波山を詠んだ万葉の歌碑(左)、 筑波山梅林入口にある小倉百人一首、陽成院の歌碑(右)
平将門と源義家
 平将門は、平安時代中期、現在の茨城県南西部を本拠にした地方豪族で武将。 関東一円を支配下に治めた承平天慶の乱(平将門の乱)で知られる。この乱は武士の発生を示すものともいわれている。
 将門の史跡は、隣の常総市や坂東市、取手市に多くあり、つくば市内には少ない。最も有名なものでは、子飼の渡しの合戦跡。 現在のつくば市吉沼と下妻市宗道の間の小貝川にあった子飼の渡しでの、平良兼との戦い。 良兼軍は、将門の祖父である高望王と父良将の像を軍の前に掲げ、そのため攻撃できなくなった将門軍を打ち破ったとされる。 小貝川に架かる愛国橋の宗道側の堤防上に「史跡子飼の渡し」の碑が建っている。
 このほか、つくば市松塚の東福寺の近くには、将門の娘の滝夜盛姫の墓とされる遺跡が残っている。 なお、東福寺には、滝夜盛姫の石棺の一部とされるものもある。
 源義家は、平安時代後期の武将。八幡太郎の通称で知られ、後の鎌倉幕府を開いた源頼朝、室町幕府の足利尊氏の祖先に当たる。 そのため、神格化され、各地に伝説が残っているがつくば市内にもその足跡がある。
 つくば市今鹿島は、義家が奥州へ向かう際「常陸の国には鹿島神宮という軍神を祀る神社がある。ぜひ参拝したい」としたが、ここからはるかに東の海の近くであることを知ると、 馬を降りて東の方を向いて戦勝祈願したと伝えられえる。それ以来、この地を今の鹿島、今鹿島と呼ぶようになったという。 また、この時馬の鞭を地面にさして祈願したが、不思議なことに根付き育った。これをご神木として祀ったのが今鹿島の鹿島神社である。なお、ご神木は榊で、枝の先を地面にさしたので、逆さ榊と呼ばれる。
逆さ榊
つくば市今鹿島の鹿島神社本殿裏にあるご神木、逆さ榊
 同じくつくば市山木の八巻神社は、義家が奥州へ向かう途中、この地にかかった時、疫病が流行しており、兵士達も多くかかり、困っていた。 義家は日頃から信仰していた伊豆山神社に参拝し、伊豆の「豆」にちなんで、「以後、小豆は食べないので兵士達の病を治してほしい」と願をかけたところ、病は治り、戦にも勝った。 このため、伊豆山神社の神様をこの地に祀り、八幡太郎にちなんで「八巻神社」とした。
 このほか、つくば市吉沼の吉沼八幡神社は、義家が奥州へ向かう途中、戦勝祈願した場所という。
常陸平氏の嫡流・多気氏
 栄華を極めた「平家」の象徴でもある平清盛の源流は筑波山麓にある。 桓武天皇から出た、いわゆる桓武平氏は、ひ孫の高望王が平姓を賜ったことに始まる。 高望王の子が、平国香、平良持で、良持の子が平将門、そして平将門の乱の平定に功があった貞盛は、国香の子である。 常陸平氏は、平国香が常陸大掾に任命されたことに始まる。 平貞盛は、乱後京に上り、その子・維衡(これひら)が伊勢地方(三重県)に領地をもらったことから伊勢平氏と呼ばれるようになった。 平清盛は、維衡の6代目の子孫となる。 貞盛の弟、繁盛は、その後も常陸を本拠とし、常陸平氏の嫡流として栄えた。代々常陸大掾を世襲したことから、大掾氏とも呼ばれる。 現在のつくば市北条に本拠を置き、繁盛の子・維幹(これもと)から、北条の地の古名である多気氏を名乗る。 為幹(ためもと)、重(繁)幹(しげもと)、致幹(むねもと)、直幹(ただもと)、義幹(よしもと)と6代続いた。 鎌倉時代に入って力をつけてきた八田知家の策略によって所領と大掾職を没収された。その後大掾職は、同族の吉田氏に、そして本拠は水戸に移った。 北条の市街地の北側にあるこんもりした山は、維幹が築城した場所と伝えられ「城山(じょうやま)」と呼ばれる。山中には、城址が残っている。 また、義幹は地元の人たちから「多気太郎さま(たきたろさま)」と呼ばれる。北条用水や日向廃寺を建設するなど地元の人から慕われていたようだ。
■鎌倉・室町・安土桃山時代■
小田氏
 つくば市小田にあった小田城は、鎌倉時代から戦国時代末まで、この地方に勢力を誇った豪族・小田氏の居城で、南北朝時代には南朝方の関東における拠点として知られている。 当時は日本最大級の城郭だったが、現在はわずかに城跡が残るのみ。時期によって変動するが、現在のつくば市のほぼ全域が小田氏の勢力下にあった。
 小田氏は、鎌倉時代、源頼朝に従って功を挙げた八田知家が祖とされ、知家の子、知重、あるいは孫の泰知が小田氏を名乗った。 八田氏は摂関家・藤原北家の流れをくむ宇都宮氏を祖とする。八田知家は、鎌倉幕府草創期、源頼朝の信任厚く常陸守護の地位を手に入れ、 常陸国での代表的な武家となる。源頼朝死後、鎌倉幕府で行われた十三人の合議制の一人。 2代・知重、3代・泰知、4代・時知、5代・宗知、6代・貞朝、7代・治久、8代・考朝、9代・治朝、10代・持家、11代・朝久、12代・成治、13代・治孝、14代・政治、 15代・氏治と戦国時代まで続いた。
 なお小田氏は、室町時代には宇都宮氏、小山氏、千葉氏、佐竹氏、結城氏、長沼氏、那須氏とともに関東八屋形(かんとうはちやかた、関東八家)として、有力大名としてこの地方を治めた。
 小田城跡は、歴史的重要性などから1935(昭和10)年に約21.5ha(東西500m、南北600m)が国の史跡に指定されている。 中心の方形の曲輪(本丸)を中心に三重の堀と大小の曲輪が取り囲んでいる。城跡に遺構は何もない。 なお、本丸跡の中央を対角線上に鉄道の軌道があったが、廃線後つくられた自転車道は、迂回してつくられている。
小田城本丸跡
小田城本丸跡から筑波山を望む
神皇正統記
 小田氏第7代当主、小田治久は、陸奥安藤氏の乱を鎮圧するなどして功績を上げ、上洛して後醍醐天皇に仕えた。 その後、南北朝では南朝側の武将として、関東の北朝方と戦った。 南朝方の有力武将、北畠親房は、東北地方で南朝の勢力を拡大しようと海路向かったが、途中難破し、常陸国に流れ着いた。 小田治久を頼り、小田城に入城。神皇正統記は、この小田城で、しかも籠城中に書かれたとされる。後に関城(現筑西市)に移って修正を加え完成させた。 小田氏は、その後降服し、北朝方として戦った。 神皇正統記は、南朝方の正当性を述べた歴史書。のちに徳川光圀の『大日本史』編纂や後の皇国史観にも影響を与えたとされる。
三村山清涼院極楽寺
 当時、三村山と呼ばれていた宝篋山の南麓にあった寺院。創建年代は不明だが、小田氏の時代には、聖地化され、大伽藍が展開されていたと考えられている。 現在は、奥の院あったと見られる五輪塔が残るのみで、伽藍跡は無い。わずかに当時の瓦片が出土する。また、極楽寺にあった梵鐘が土浦市の等覚寺に残る。
 1252(建長4)年12月、奈良・西大寺の律宗の僧・忍性が極楽寺に入り、東国での布教の拠点とした。
極楽寺跡
現在の極楽寺跡遠景
佐竹氏
 戦国時代、小田氏は小田原の北条氏と同盟を結んで常陸国南部を治めていた。しかし徐々に常陸国北部を本拠地としていた佐竹氏の勢力が増し、 1569(永禄12)年、小田氏は筑波山東麓の手這坂の合戦で破れ、小田城を明け渡し、現在のつくば市の大半が、佐竹氏の勢力範囲となる。
 小田城には、佐竹氏の客将だった梶原政影が入る。 その後、1600(慶長5)年、佐竹氏の重臣、小場義成が入ったが、1602(慶長7)年、佐竹氏の秋田移封とともに廃城となる。
■江戸時代■
江戸時代のつくば
 江戸時代に入ると、天領、藩領、旗本の知行地などが入り乱れていた。つくば市地域に陣屋があり、ほぼ江戸時代を通して存続し、 幕末まで続いた藩は谷田部藩のみ。このほか北条藩、玉取藩が一時期あった。また、つくば市内に領地のみ(他の場所に主領地)あった藩は、一時期を含めて、 土浦藩、小張藩、真壁藩、笠間藩、牛久藩、石岡藩、さらには近江・高島藩、上州・前橋藩、奥州・仙台藩など。
 このほか、旧町村を見てみる。時代によって変わるが、旧筑波町では、土浦藩領のほか、筑波、臼井、沼田が知足院領、安食が天領。その他が旗本領となっている。
 旧大穂町では、1633(寛文3)年、筑波郡吉沼村、西高野村、大砂村、大園木村(のちに豊田郡=現下妻市)の4カ村が仙台藩領となった。 明治維新まで仙台藩領として続いている。このほかの地区は、堀氏、堀田氏などの旗本領。
 旧豊里町は、上郷と今鹿島、木俣、遠東などが天領、沼崎、百家、酒丸の一部が谷田部藩領、このほかはほとんどが旗本領。なお、田倉、上里は旧吉沼村で、仙台藩領。
 旧谷田部町のうち、谷田部藩領はおよそ半分。谷田部及びその周辺が中心。北部の高須賀、真瀬、中別府、下別府などが天領、島名、上河原崎、面野井、東平塚、西平塚、西大橋などが旗本領。 赤塚、下原、梶内、新牧田は、旗本のなかでも高家と呼ばれ、幕府の祭礼などを執り行った由良氏領。 由良氏は、新田義貞の子孫で、牛久に陣屋を構えていた。現在、つくば市新牧田には新田氏の氏神を祀る新田神社がある。 小白硲の一部には石岡藩領があった。
 旧桜村地域の金田、中根、松塚、古来、花室など東側半分は土浦藩領。大角豆と妻木の一部が石岡藩領。その他が旗本領。
 旧茎崎町は、樋沢、若栗、房内、大井が谷田部藩領。庄兵衛新田と下岩崎の一部が前橋藩領、高崎、小茎、天宝喜が牛久藩領、菅間が由良氏領、その他が旗本領となっている。
 がまの油売りの口上や百家に伝わる竜水万灯が始まったのも江戸時代とされる。
 江戸時代のつくばは、大きな街道からもはずれ、当時の物流の動脈とされた水運からもはずれており、大きな集落を形成する要素が少なかった。
谷田部陣屋玄関
谷田部藩の陣屋が置かれていた谷田部小学校周辺
谷田部藩
 谷田部藩の藩主は、肥後・細川家の分家である細川氏。石高は1万6200石(ただし1万石は栃木県茂木周辺での領地)。 初代藩主は細川藤孝の次男、細川興元(おきもと)。以降、興昌(おきまさ)、興隆(おきたか)、興栄(おきなが)、興虎(おきとら)、興晴(おきはる)、興徳(おきのり)、興建(おきたつ)と続き、 9代目の興貫(おきつら)で明治維新を迎える。陣屋のあった場所は現在の谷田部小学校。約6800坪の敷地に堀をめぐらし、約120坪の陣屋があった。 谷田部に陣屋を築いたのは2代興昌。現在遺構として残るのは陣屋の玄関で、谷田部小学校前に移築されている。 重厚な造りが当時の面影を偲ぶことが出来る。また、当時はかやぶき屋根だったようだ。
 この谷田部には、発明家の飯塚伊賀七がいた。通称・からくり伊賀七。からくり人形や和時計などを作った。 また建築にも才を発揮し、正五角形の建物「五角堂」は現在も残っている。
 廃藩置県前に陣屋を谷田部から茂木に移したため、廃藩置県では谷田部県ではなく茂木県となった。その後、新治県に統合されている。
北条藩
 北条藩(千葉県にあった北条藩と区別するため常陸北条藩と呼ばれることが多い)は、外様の佐久間家によるものと、譜代の堀田家によるものがある。 それぞれ5年、6年と、短い期間だった。
 江戸時代初期の1610(慶長15)年、佐久間勝之が北条領3000石を賜り、総石高1万石となって成立。陣屋は北条に置かれた。 1615(元和元)年、信濃・長沼1万8000石に転封となり廃藩となった。
 1625(寛永2)年から旗本・堀田正盛(のち下総・佐倉城主)となる。1651(慶安4)年、正盛は将軍・家光に殉死し、北条の遺領は四男・正英が継ぐ。 正英はその後、出世し若年寄などを務め、1680(延宝8)年、筑波、新治、信太郡内で3000石加増、 1682(天和2)年、筑波、新治、真壁郡内で5000石加増され、1万3000石の大名となって、北条藩が成立した。 1688(元禄元)年、正英が死去すると、遺領は兄弟で分けられ北条藩は廃藩となった。 その後、長男・正親が不祥事で領地没収。しかし、二男・正矩と三男・正章は、旗本として存続している。 正矩は間もなく下野国に国替えとなったが、正章の系統は代々この地で続いた。
玉取藩
 玉取村(つくば市玉取)に陣屋を置いた譜代の藩。 堀利重は、大坂の陣で戦功があり、1622(元和8)年、新治郡に1万石を与えられ玉取藩が成立。1633(寛永10)年には近江、安房、上総で4000石を加増され、 1万4000石を領した。利重は、初代寺社奉行などを歴任した。利重の死後は、長男の利長が相続、弟の利直に栗原村など2000石を分与、玉取藩は1万2000石となった。 利長の後は、養子の通周が継いだ。しかし、1679(延宝7)年、発狂して家臣を殺したとして領地を没収され廃藩となった。 堀家は、不祥事で大名としては途絶えたが、通周の弟・利雄が旧領から新治郡3000石が与えられ旗本として存続。 利雄は山田奉行、下田奉行、浦賀奉行などを歴任、讃岐守となっている。この後、利躬、利記、長尚と続いている。 また2000石を分知された利長の弟・利直の系統も、利庸、利正、利哲と代々旗本として続いた。
小張藩
 1603(慶長8)年、外様大名の松下重綱が、遠江国(静岡県)久野から筑波郡小張(つくばみらい市、旧伊奈町)に移され、1万6000石で成立した。 つくば市内は水守、明石、作谷、寺具、洞下、池田、磯部、中菅間、上菅間の9か村4850石。1623(元和9)年下野国(栃木県)烏山に移っている。
真壁藩
 1606(慶長11)年、豊臣政権で五奉行の一人であり、その後、徳川家康にも用いられ、囲碁相手も務めるなど信任が厚かった浅野長政が、 隠居領として真壁、筑波の一部5万石で成立。旧真壁町から旧筑波町にかけての桜川両岸が領地。桜川の東が川内2万石、桜川の西が川外3万石と呼ばれた。 つくば市内は、大島、国松、沼田、臼井、神郡、大貫、杉木、泉の8か村。1611(慶長16)年、長政が亡くなると下野国真岡に2万石を領していた3男の長重が遺領を継ぐ。 1662(元和8)年、笠間に移って、真壁藩は廃藩となり、笠間藩が成立した。移封後も川内2万石はそのまま、笠間領。 1645(正保2)年、長重の子、長直の時代に播州(兵庫県)赤穂に移封となった。忠臣蔵で有名な浅野長矩は、長重の曾孫。 笠間藩は、浅野氏の後、井上正利が遠江国横須賀城から入封、5万石を領した。つくば市内の領地は弟で分家の旗本・井上正義領となる。
土浦藩
 現在のつくば市内に大きな領地を有していた。旧桜村の大部分と旧筑波町の東半分が領地。 江戸時代初期は、短期間で城主が変わった。松平氏、西尾氏、朽木氏などで、このなかでは朽木氏が20年ほどの期間領主となり最も長い。 その後、1669(寛文9)年、土屋数直が入封。土屋氏は、もと武田信玄の家臣で、天目山の戦いで「片手千人斬り」と称される活躍をした土屋昌恒の遺児、土屋忠直が徳川家康に召しだされて大名となった。 忠直は千葉・久留米藩主。数直は忠直の次男で、早くから徳川家光の近習として仕え、若年寄、そして老中を務めた。土浦入封時、すでに老中の職にあり、4万5000石の知行高だった。 数直の死後、政直が遺領を継いだが、1682(天和2)年、駿河(静岡県)に国替えとなった。 1687(貞享4)年、老中となった政直が6万5000石で再入封、以後加増され、1718(享保3)年には9万5000石となっている。 その後、陳直、篤直、寿直、泰直、英直、寛直、彦直、寅直、挙直と続き、明治維新となった。廃藩置県では土浦県となり、その後、新治県に統合されている。 つくば市内の領地は、現在の大字で、北条、小田、小沢、漆所、小沢、泉、小泉、君島、平沢、小和田、山口、大形、太田、吉瀬、横町、中根、松塚、金田、大、古来、花室、 上ノ室、上広岡、下広岡など。
高島藩
 近江・高島藩領は、1607(慶長12)年、高島藩主・佐久間安政が常陸国小田(つくば市小田)で5000石を加増され2万石となった。なお、北条藩の勝之は弟である。 安政は、1615(元和元)年、3万5000石に加増され、信濃・飯田に移っている。
人足寄場
 正式には加役方人足寄場。江戸時代の1790(寛政2)年、常陸国筑波郡上郷村(現在のつくば市上郷)に設けられ、人足寄場奉行が置かれた。 人足寄場とは、無宿人や軽い罪を犯したものの矯正施設。大工、建具、塗師などの職人育成や農業訓練、開墾が行われた。 残されている資料は少なく、詳しくは分かっていないが、120人前後が収容されていた記録が残っている。
 人足寄場は、テレビドラマなどで知られる火付盗賊改め・長谷川平蔵が老中・松平定信に進言して設けられたと伝えられる江戸・石川島の人足寄場が有名。 つくばの寄場は、長谷川平蔵とは関係が無い。なお、石川島の寄場は町奉行の管轄、つくばの寄場は勘定奉行の管轄。設立が同じ年であることから石川島の寄場設立直後に設けられたと見られる。
角内農村集落センター
人足寄場の一角があった角内農村集落センター
天狗党の乱
 江戸時代末、1864(元治元)年3月には、水戸藩士の天狗党が、筑波山で挙兵した。 尊皇攘夷派の藤田小四郎を中心にした62人で、藤田が23歳と若かったため、水戸町奉行の田丸稲之衛門を主将とした。 筑波山での挙兵は、当時から名山として知られ、挙兵を各地に印象付ける目的があったと見られる。 挙兵後、浪人や農民などが集結し、数日で150人余りに膨れ上がったと伝えられている。 ただ、筑波山は挙兵の地ではあるが、筑波山での戦闘は無い。近くでは、現在の下妻市にあった高道祖原で同年7月、幕府の追討令を受けた諸藩軍との戦闘があった。 筑波軍は最初敗れるも、諸藩軍の本営があった下妻の多宝院を夜襲するなどして勝利を収めている。 同年8月、筑波山での駐屯が終了している。現在のつくば市域内では、ちょっとした天狗騒動やにせ天狗騒動も各地で起きている。
■明治・大正・昭和■
明治期以降のつくば
 明治期に入ると、廃藩置県で、土浦県、牛久県、そして天領や旗本の知行地は若森県が置かれた。また、石岡県はじめ、茂木県、前橋県の飛び地があった。 茂木県は、谷田部藩が明治維新以降、茂木に陣屋を移したことによる。 その後、つくば市域は、新治県、そして茨城県に統合される。 1889(明治22)年、市制・町村制が施行され、それまでほぼ、現在の大字名(研究学園都市地区及び工業団地などで新しくつけられた住所は除く) ごとに林立していた村々が、筑波町、北条町、田井村、田水山村、小田村、菅間村、作岡村、大穂村、吉沼村、上郷村、旭村、小野川村、真瀬村、島名村、葛城村、谷田部町、栗原村、 九重村、栄村、茎崎村に統合された。 なお、このとき誕生した茎崎村は、その後町制が敷かれ、2002(平成14)年につくば市に合併するまで、合併等を行わなかった全国でも例が少ない自治体だった。 1918(大正7)年には筑波鉄道が開通(1987年に廃線)。1925(大正14)年には筑波山ケーブルカーが開通している。
明治維新時のつくばの村々
 明治維新時、つくば市域にあった村々を紹介。筑波地区には1町33カ村、大穂地区には16カ村 豊里地区には15カ村、谷田部地区には1町65カ村、 桜地区には21カ村、茎崎地区には13カ村、全域で2町163村あった(茨城県史市町村編を参考)。
筑波地区にあった村々(カッコ内は幕末時の領主)=筑波町(社領)、沼田村(同)、臼井村(同)、北条村(土浦藩)、小田村(同)、小沢村(同)、漆所村(同)、 小泉村(同)、泉村(同)、君島村(同)、太田村(同)、小和田村(同)、山口村(同)、平沢村(同)、大島村(同)、大形村(同)、安食村(天領)、高野原新田(同)、 池田村(天領、旗本領)、上菅間村(同)、作谷村(同)、水守村(同)、神郡村(旗本領)、国松村(同)、大島村(同)、杉木村(同)、大貫村(同)、洞下村(同)、 中菅間村(同)、磯部村(同)、寺具村(同)、明石村(同)、田中村(同)、山木村(同)。
大穂地区にあった村々(同)=弥平太村(天領)、南口堀村(同)、上口堀村(同)、中根村(同)、前野村(同)、大曽根村(天領、旗本領)、玉取村(同)、長高野村(同)、 吉沼村(仙台藩)、大砂村(同)、西高野村(同)、若森村(旗本領)、蓮沼村(同)、佐村(同)、篠崎村(同)、猿壁村(同)。
豊里地区にあった村々(同)=上郷村(天領)、木俣村(同)、遠東村(同)、今鹿島村(同)、中東原新田(同)、西酒丸新田(同)、牛縊村(天領、旗本領)、 西酒丸村(谷田部藩)、西谷ヶ代村(同)、中東村(同)、百家村(谷田部藩、旗本領)、沼崎村(旗本領)、手子生村(同)、野畑村(同)、高野村(同)。
谷田部地区にあった村々(同)=谷田部町(谷田部藩)、東丸山村(同)、羽成村(同)、上萱丸村(同)、下萱丸村(同)、上飯田村(同)、下飯田村(同)、中野村(同)、 栗山村(同)、片田村(同)、根崎村(同)、古館村(同)、境田村(同)、境松村(同)、高田村(同)、苅間村(同)、中内村(同)、館野村(同)、松野木村(同)、 小野崎村(同)、大沼村(同)、上原村(同)、手代木村(同)、上横場村(同)、下横場村(同)、今泉村(同)、榎戸村(同)、北中妻村(同)、南中妻村(同)、 市ノ台村(同)、真瀬村(天領)、高須賀村(同)、上新田村(同)、中別府村(同)、下別府村(同)、根崎村(同)、原村(同)、花島新田(同)、鍋沼新田(同)、 下河原崎村(谷田部藩、天領)、小白硲村(石岡藩、旗本領)、下新田村(佐倉藩、天領)、鬼ヶ窪村(天領、旗本領)、島名村(旗本領)、水堀村(同)、面ノ井村(同)、 宮本村(同)、中北村(同)、上河原崎村(同)、東平塚村(同)、西平塚村(同)、下平塚村(同)、大橋村(同)、新井村(同)、大白硲村(同)、平村(同)、柳橋村(同)、 山中村(同)、島村(同)、西岡村(同)、北中島村(同)、稲岡村(同)、赤塚村(同)、下原村(同)、新牧田村(同)、梶内村(同)。
桜地区にあった村々(同)=上境村(土浦藩)、土器屋村(同)、横町村(同)、金田村(同)、松塚村(同)、中根村(同)、古来村(同)、大村(同)、吉瀬村(同)、 上室村(同)、上広岡村(同)、下広岡村(同)、花室村(同)、栗原村(天領、旗本領)、大角豆村(石岡藩)、妻木村(石岡藩、旗本領)、蔵掛村(旗本領)、東岡村(同)、 柴崎村(同)、上野村(同)、岡村新田(天領)。
茎崎地区にあった村々(同)=小茎村(谷田部藩)、若栗村(同)、房内村(同)、房内新田(同)、樋ノ沢村(同)、上大井村(同)、下大井村(同)、高崎村(牛久藩)、 天宝喜村(同)、庄兵衛新田(前橋藩)、下岩崎村(前橋藩、旗本領)、上岩崎村(旗本領)、菅間村(旗本領)。
若森県
 若森県は、常陸国及び下総国の天領及び旗本領を管理するため設けられたもので、その範囲は筑波、新治、真壁、茨城、岡田、豊田、結城の各郡、560余村で、石高にして約28万石に及んだ。 県庁は、現在のつくば市若森に置かれたことから、この名がある。この場所は、多賀谷政経が築いた若森城があった場所で、江戸時代は旗本の陣屋が置かれていた。
 県庁には、会計局、租税局、寺社局、断獄局、聴訴局などの部局が置かれ、20人ほどの役人がいた。 初代知県事(長官)は、それまでの常陸知県事の池田種穂。若森県は、1871(明治4)年、新治県に統合され消滅している。 なお、新治県の初代長官(新治県権命)には池田が就任している。その後新治県は、1875(明治8)年、茨城県に統合している。
高層気象台
 1920(大正9)年8月25日、当時の小野川村館野(旧谷田部町)において、52万平方mの国有林に発足した。 ドイツの高層気象台を範にして、首都に近い、周囲に人家が少ない、平坦地であるなどの条件を満たした同地に決定した。
 当初は凧や係留気球によって上空2〜3kmの観測(気温、湿度、気圧)を、ゴム気球によって上空10km以上の観測(上層風)を行った。
 なお、現在の住所はつくば市長峰1−2だが、高層気象観測所名は現在でも「館野」となっている。
常南電気鉄道
 大正期にあった鉄道計画で、一部は工事がスタートした。 1922(大正11)年、土浦から谷田部を経て水海道に至る電気鉄道計画及び土浦から阿見に至る計画が持ち上がった。 1923(大正12)年には第1期工事として小野川村今泉、谷田部町台町下、同駒形が着工した。 しかし、当時の不景気の影響もあり、工事は放棄された。着工した部分は現在は道路となっている。当時架橋されたものではないが、電鉄橋などの名前も残る。
 なお、土浦から阿見に至る路線は、1928(昭和3)年3月22日に開通したが、1938(昭和13)年に廃線となった。
常南電気鉄道道路
常南電気鉄道の着工した部分とされる道路。手前の橋は電鉄橋
東水電気軌道
 大正期にあった鉄道計画。その名の通り、東京と水戸を結ぶ路線。1920(大正9)年に軌道敷設許可申請が出されている。それによると、現在の水戸市から、小美玉市、石岡市、土浦市を経て、 現在のつくば市へ。旧小野川村、旧谷田部町を経て、現在のつくばみらい市、常総市を通過し、千葉県、埼玉県から東京都足立区千住へ至る路線。
筑波高速電気鉄道
 昭和初期にあった鉄道計画。1928(昭和3)年3月、設立免許。計画では、日暮里駅(当初田端駅)から埼玉県、千葉県を経て茨城県内に入り、現在の守谷市、つくばみらい市を経て、 旧谷田部町、旧葛城村、旧旭村、旧栗原村、旧大穂村、旧小田村、旧北条町、旧田井村に至る路線。 東北本線と常磐線の中間線として計画されたという。
上郷繭市場
 明治時代に入り、日本の重要な輸出品となった生糸(絹)。その影響もあって全国的に養蚕が奨励され、現在のつくば市内の範囲では、茨城県内でも有数の養蚕地帯となっていた。 筑波郡内の養蚕農家は、繭の販売方法の改善などを目的に筑波郡養蚕同業組合を設立。 1924(大正13)年に、上郷繭市場設立の議が、地元有志によって提起され、翌1925(大正14)年、旧上郷村(現在のつくば市上郷)に株式会社上郷繭市場が資本金15万円で設立された。
 主な取引先は長野県内製糸工場。集められた繭は、常総鉄道の三妻駅、石下駅まで荷馬車で運ばれ、鉄道で長野まで送られた。 繭市場の取引は活況だったというが、金融恐慌や大恐慌の影響もあり、1938(昭和13)年、長野県岡谷市の丸興製糸株式会社が買収した。 丸興製糸は、1931(昭和6)年に岡谷市内の製糸工場などが恐慌対策のために合併して誕生した会社。1961(昭和36)年には丸興工業に社名変更した。 1997(平成9)年には、生糸製造部門から撤退している。
 上郷繭市場は、買収された後も事業を続けていた。現在は閉鎖され、更地となっている。
海軍谷田部航空隊
 旧谷田部町にあった海軍の施設。現在のつくば市観音台、農林研究団地とほぼ同じ範囲。 1932(昭和7)年、霞ヶ浦航空隊の補助飛行場として造成された。 主に霞ヶ浦航空隊谷田部分遣隊として、初期練習課程が置かれた。 1939(昭和14)年12月1日、霞ヶ浦航空隊から分離独立し、谷田部航空隊として開隊。 その後、神ノ池航空隊(現在の神栖市)で行われていた戦闘機の実用訓練が、谷田部航空隊に移動。 零戦による首都の防空や天号作戦、菊水作戦に兵力を提供した。 終戦により、解隊。
 終戦後は、農地として開拓されたが、筑波研究学園都市の建設に伴い、大部分が農林水産省の施設となっている。 遺構は、建物の一部が長い間、筑波学園病院の建物として残されていたが、現在は取り壊されている。 病院近くに、航空隊内にあった谷田部神社が移築されている。また、病院の敷地内に谷田部航空隊の記念碑が2013(平成25)年4月建立された。 このほか、常磐道に架かる橋に飛行場橋の名前を残す。
谷田部航空隊記念碑 谷田部航空隊
谷田部海軍航空隊記念碑(左)、滑走路を思わせる真っ直ぐな道がある農林研究団地内の道路(右)
陸軍西筑波飛行場
 旧作岡村(現在のつくば市作谷)と旧吉沼村(現在のつくば市吉沼)にあった陸軍の施設。1939(昭和14)年3月、建設が決まり、約300haの土地を約1年余りで造成、1940(昭和15)年7月開場した。 名称は旧作岡村側が「作谷飛行場」、旧吉沼村側が小字名から「神立飛行場」を主張したが、軍は西筑波飛行場としたという。
 1942(昭和17)年2月、オランダ領スマトラ島のパレンバン製油所占領作戦に参加し、のちにその神がかりな戦果から「空の神兵」と称えられた「第一挺進団」(落下傘部隊)も同作戦前に西筑波飛行場周辺で訓練をしたとされる。
 また、陸軍挺進滑空飛行第一戦隊(グライダー部隊)発祥の地として知られる。陸軍士官学校西筑波分教場も置かれた。
筑波山山頂裁判
 筑波山の山頂は、江戸時代には筑波山神社領(当時は知足院領)とされていた。そのため明治以降も、境界は分水嶺を越えて筑波町のものとされていた。 これに対し、筑波山北側の真壁郡紫尾村の村長が、1930(昭和5)年、分水嶺での境界を主張、筑波町長に話し合いを求めてきた。 その後、戦争による中断を経て、紫尾村を合併した真壁郡真壁町が話し合いを再開し、1957(昭和32)年、水戸地裁に境界の変更、確定を求める行政訴訟を起こした。
 真壁町側の主張は、山の境界は分水嶺によるものが一般的であり、元禄時代の古地図や営林署の地図などを証拠として提出。 一方筑波町は、山頂には男体社、女体社があり山頂一帯は神社境内であるとして、その歴史的な特殊性を掲げ争った。 1963(昭和38)年、1審の水戸地裁は、真壁町側全面勝訴の判決を出し、筑波町側が東京高裁に控訴した。
 東京高裁では、筑波町側が、江戸幕府の裁許状によって知足院の境内の範囲を示すなど、歴史的事実に基づく新たな証拠を提出。 改めて山岳信仰の対象となった特殊性を主張した。1972(昭和47)年、東京高裁は、これら筑波町側の主張を認め、分水嶺より約70m北側、三方境、お迎石、大石重を結ぶ線を境界とした。 これに対して真壁町側は最高裁に上告した。
 1986(昭和61)年、最高裁は上告を却下。筑波山山頂は筑波町という判決が確定した。
山頂境界確定記念碑
筑波山神社境内にある山頂裁判の記録と境界確定を記した筑波山山頂境界確定記念碑
日本自動車研究所
 1961(昭和36)年、財団法人自動車高速試験場として設立。同年6月、旧谷田部町に試験コースのための用地取得を開始。 同町面野井、苅間などにまたがる2,486,000平方mを取得した。1964(昭和39)年9月に第1期工事が完成した。 1969(昭和44)年4月、財団法人日本自動車研究所に改組した。
 試験場は、全長5500mの高速周回路はじめ、滑り易い試験路、衝突試験装置(主加速路350m、副加速路250m)、傾斜路(勾配30%)などがあり、 自動車に関する総合的な研究を行ってきた。
 2003(平成15)年7月には、財団法人日本電動車両協会、財団法人自動車走行電子技術協会を統合し、新生、財団法人日本自動車研究所として新たなスタートをしている。
 2005(平成17)年、つくばエクスプレスの沿線開発に協力し、高速周回路など大規模実験施設を同じ茨城県内の東茨城郡城里町に移転した。 つくばに残るのは2005(平成17)年4月に完成した衝突実験場、2008(平成20)年に完成した市街路実験コース、2009(平成21)年完成した全方位視野ドライビングシミュレータなどがある。
戦後のつくばと研究学園都市の建設
 戦後、いわゆる昭和の大合併で、つくば市域は筑波町、大穂町、豊里町、谷田部町、桜村、茎崎村(その後町制施行)となった =詳細はつくば市合併前の旧町村へ。
 1963(昭和38)年に研究学園都市を筑波山麓に建設することが閣議了解。1964(昭和39)年には「研究・学園都市建設推進本部」の設置を閣議決定した =詳細は下記の筑波研究学園都市の歴史を参照。
 1972(昭和47)年、移転機関第1号無機材質研究所開設。1973(昭和48)年には、東京教育大学が旧桜村に移転し、筑波大学として開学した。 1980(昭和55)年に当初から移転が決定していた43の試験研究、教育機関の施設が概成、全てで業務開始した。 また、1983(昭和58)年には、筑波研究学園都市のランドマークとなっているつくばセンタービルがオープンしている。
 1985(昭和60)年、筑波研究学園都市の概成を記念するとともに、筑波研究学園都市を国内外にアピールすることなどを目的に国際科学技術博覧会を開催している。
 2013(平成25)年には、閣議了解以来50年の「筑波研究学園都市50周年」を迎え記念式典も行われた。
つくば市の誕生
 1987(昭和62)年に谷田部町、大穂町、豊里町、桜村が合併してつくば市が誕生。翌1988(昭和63)年に筑波町が編入合併した。
 合併当初の市役所は、旧第一圏民センター(現市民ホールやたべ)。旧町村の谷田部町役場、大穂町役場、豊里町役場、桜村役場には支所が置かれた。 市長職務代理者には木村操旧谷田部町長が就任。副市長に稲葉勝行旧大穂町長、野堀豊定旧豊里町長、倉田弘旧桜村長が就任した。 行政機構は一室六部四支所。市長公室、総務部、財務部、企画部、民生部、経済部、建設部、大穂支所、豊里支所、谷田部支所、桜支所。 加えて教育委員会、議会事務局。市長公室は秘書課、広報班、総務部は総務班、人事班、財務部は財政班、税務班、企画部は、企画調整班、 総合開発班、事務改善班、民生部は福祉事務所、民生班、衛生班、経済部は農政班、商工観光班、建設部は建設班、都市計画班、下水道班で構成された。 また支所は、それまでの旧町村をかなりの部分で独立した財政運営を行うタッチゾーンと呼ばれる方式の採用により設けられた。 各地区担当の副市長を長に、事務方のトップとなる支所長も置かれた。なお各地区の担当副市長は、旧町村の町村長がそのまま就任した。 初代市長に倉田弘旧桜村長が就任後は、桜地区の副市長は空席に、市長職務代理者だった木村操旧谷田部町長は、谷田部地区担当の副市長に就任している。 筑波町の合併に伴い、井坂敦美旧筑波町長は筑波地区担当の副市長になった。 大穂支所には総務部、民生部、経済部、豊里支所には総務部、民生部、経済部、谷田部支所には総務部、企画開発部、財務部、福祉部、民生部、経済部、建設部、 桜支所には経済部、民生部、衛生部、産業部、建設部が置かれた。筑波町の合併に伴い、筑波支所が加わり、総務部、民生部、経済部、建設部があった。
 ところが、副市長制度はわずが4カ月、1988(昭和63)年3月31日で廃止となり、4月1日から助役制度を導入。副市長の一人、木村操旧谷田部町長が助役に就任した。 同じく副市長だった稲葉勝行旧大穂町長と井坂敦美旧筑波町長は市長特別補佐に就任、野堀豊定旧豊里町長は退任している。なおタッチゾーンは継続。
 そのタッチゾーンも1991(平成3)年3月31日で廃止。それに伴い1991(平成3)年度から、旧町村役場を分庁舎とする行政運営となった。 第一圏民センターの本庁舎には市長公室と企画部、谷田部庁舎には総務部、財務部と議会、桜庁舎には市民部、福祉部(福祉事務所)と教育委員会、 保健衛生部が豊里庁舎、経済部が大穂庁舎、本庁分庁舎に都市開発部、筑波庁舎に建設部と下水道部が置かれている。
 2002(平成14)年には、茎崎町が編入合併し、ようやく筑波研究学園都市を構成する6町村がひとつの自治体となった。
東日本大震災
 2011(平成23)年3月11日(金)午後2時46分ごろ、三陸沖を震源とするマグニチュード9.0の巨大地震、東日本大震災が発生した。 最大震度は7、つくば市内は震度6弱を記録した。また、東日本の太平洋岸には多くの場所で巨大な津波が押し寄せ、多くの被害を出した。
 つくば市内では、死者1人(筑波山登山中の落石)、負傷者13人(うち重傷3人)の人的被害を出した。住宅の被害は全壊6棟、大規模半壊24棟、 半壊164棟、一部損壊が2425棟、住宅以外の建物では全壊55棟、大規模半壊27棟、半壊164棟、一部損壊1072棟、全て合わせると3947棟の建物に被害があった。
 このほか、上下水道、道路などのインフラや公共施設への被害も多くあった。
竜巻
 2012(平成24)年5月6日(日)午後零時35分ごろ、常総市内で発生。つくば市内は、吉沼、大砂、山木、北条の各地区約7.5kmに渡って横断した。 竜巻の規模は、国内で記録された最強規模(F3)だった。
 人的被害は死者1人、負傷者37人。住宅被害は全壊76棟、大規模半壊26棟、半壊132棟、一部損壊378棟に及び、 住宅以外の建物では全壊105棟、大規模半壊10棟、半壊50棟、一部損壊238棟、全て合わせると1015棟に被害があった。 特に人的被害及び住宅の半壊以上の被害は、東日本大震災のつくば市全体の被害を上回った。北条商店街を中心にした北条地区の被害が大きかった。
■事件■
 つくば市誕生以降、つくば市内で起きた主な事件を紹介する。
悪魔の詩訳者殺人事件
 1991(平成3)年7月11日、筑波大学の五十嵐一助教授が、エレベーターホールで刺殺された事件。未解決。 五十嵐助教授は、イギリスの作家、サルマーン・ラシュディがムハンマドの生涯を題材に書いた小説『悪魔の詩』の邦訳を行った。 悪魔の詩は、その内容がイスラム社会から冒涜的であると受け取られ、イランの最高指導者ホメイニ師からラシュディが死刑宣告を受けたほか、各国の翻訳者や出版社も狙われ重傷を負うなどしている。
 このため、当初からイスラム社会の外国人による犯行が疑われたが、2006(平成18)年7月11日、殺人罪の時効が成立した。
つくば母子殺人事件
 1994(平成6)年11月3日、神奈川県横浜市の運河で、女性と女児の絞殺遺体が見つかった。 遺体は、ビニール袋に入れられており、重しを付けられていた。横浜水上、鶴見の両警察署は合同捜査本部を立ち上げ、捜査を開始した。 首都圏の行方不明者を中心に進めた結果、つくば市内に住む主婦(31歳)と長女(2歳)とわかった。捜索願を出していたのは、夫で総合病院勤務の医師(当時29)。 その後同じく行方不明だった長男(1歳)の遺体が運河近くの海で見つかっている。
 11月25日、夫が犯行を自供。それによると、10月29日早朝、朝帰りしたところ、妻から離婚と高額な慰謝料などを切り出され、カッとなって首を絞めて殺害。 長男、長女は、母を失い、父が殺人者となったことを哀れに思い絞殺したという。2日間遺体を自宅に置いたが、31日早朝、3人の遺体を車に乗せ、首都高速の大黒埠頭から海中に遺棄した。
 1996(平成8)年2月22日、横浜地裁はこの夫に無期懲役の判決。東京高裁で控訴棄却、最高裁へ上告後、途中で取り下げ、無期懲役が確定した。
筑波大学女子学生殺人事件
 1999(平成11)年5月3日、つくば市高田の山中で、一部白骨化した女性の遺体が発見された事件。未解決。 発見されたのは筑波大学1年の女子学生(19歳)で、4月10日から行方不明になっていた。 女子学生は4月に入学したばかり。4月6日に寮に入り、翌7日には入学式に出席していた。9日夜には寮の新歓コンパに参加。 そして10日夜、寮の近くを白人外国人と一緒に歩いているのを目撃されている。 4月14日、両親から捜索願が出されていた。つくば中央署の捜査本部は、この白人外国人の行方を追っていたが、事件後行方をくらましている。
筑南水道企業団100億円詐欺事件
 2000(平成12)年、当時、つくば市と茎崎町で水道事業を行っていた筑南水道企業団の幹部職員が、 信金中央金庫から100億円を不正に引き出した事件。
■つくば市政問題■
 つくば市誕生以降起きた市政上の主要な問題を紹介する。
つくば市風車問題
 つくば市内の全小中学校に小型の風車発電機を設置し、発電した電力を学校で使うほか、余剰電力を東京電力に売電し、その収入で地域通貨を発行する。 地域通貨で地元経済に還流しようというもの。ところが、ほとんど風車が回らず、発電されないことが分かり一部の小学校に設置されただけで事業中止となった。
 2004(平成16)年度の環境省「環境と経済の好循環のまちづくりモデル事業」に選定されている。このため事業費、7.5億円のうち、3分の2の5億円が国から補助金として支出される。 計画では10kwの風車発電機75基を設置する予定だったが、23基設置した時点で、ほとんど風車が回らないことが分かり、事業を凍結している。 この事業では、早稲田大学に発電量などの試算を依頼するなど業務を委託していた。このためつくば市が早稲田大学に対し、3億円の損害賠償を求め提訴。 最高裁まで争われ、2011(平成23)年、早稲田大学に対し約9000万円を支払うように命じる判決が確定した。 また、市民団体がつくば市長などを相手取り、住民訴訟を起こしていた。こちらも最高裁まで争われ、2012(平成24)年、元助役などに賠償を命じる判決が確定している。
合併問題
 2013(平成25)年から2014(平成26)年にかけて表面化したつくば市と土浦市の合併問題。 実施した市民アンケートでは、つくば市側の反対が多く、合併に関する勉強会は継続されたものの、立ち消えとなった。 詳細は合併のページ及び TOP参照。
新総合運動公園建設問題
 2015(平成27)年に起きた(仮称)つくば市総合運動公園の建設問題。 市議会を2分する議論が起きた上、最終的に住民投票が行われ、圧倒的に反対が多かったことから、計画は撤回された。 しかし、土地はすでに購入済であり、この土地を今後どうしていくかが大きな課題となっている。
 つくば市内の小中学生が、陸上記録会で使用できる公認の陸上競技場が無かったことから、市内の学校関係者などから 早期の公認陸上競技場建設の要望もあがっていた。また、市の総合計画にも整備が盛り込まれている。 ししながら、市議会などに提示された市総合運動公園の構想では、第1種公認陸上競技場を中心とし総合体育館やラグビー場兼サッカー場 などの総合運動公園を建設する予定だった。 用地は高エネルギー加速器研究機構南側の未利用地約45.6haに決定、用地の購入も済ませた。 しかし、この構想では総事業費約300億円、年間の維持費がおよそ3億円と、これまでにない規模になることから、 反対の声が多くあがった。さらに約66億の土地購入に関しても価格決定時に不透明な部分があったのではないかと指摘された。 さらに計画自体が、陸上競技場優先から、茨城国体の会場にするということで、体育館を優先して整備するなどとしたことも不信感を強めていった。
 このため市民グループなどが中心となって(仮称)つくば市総合運動公園基本計画、及びこれに係る市費の支出の賛否を問う住民投票条例の直接請求をスタートさせた。 2015(平成27)年2月4日、直接請求の第一歩となる条例制定請求代表者3人から市長に条例制定請求代表者証明書の交付申請が行われた。 同年2月10日、市長は条例制定請求代表者証明書を交付、その旨を告示した。翌日の2月11日から3月10日までが署名の収集期間となる。
 2015(平成27)年3月16日、条例制定請求代表者から市選挙管理委員会に署名簿が提出された。市選挙管理委員会は 署名の審査を開始。 同年4月1日、市選挙管理委員会は署名審査を終え、その結果を告示した。 それによると署名簿に署名し印を押したものの総数11718人、 うち有効署名総数11363人とした。 同時に市選挙管理委員会は同年4月6日から12日までを署名簿の縦覧期間として告示した。 市選挙管理委員会は縦覧期間に異議の申し出がなかったことから、同年4月13日、有効署名11363人として告示、 合わせて署名簿を請求者に返還した。2015(平成27)年4月17日、条例制定請求代表者は、市長に対し署名簿を添えて条例制定請求書を提出。 同日受理、及び告示が行われた。
 これを受け、2015(平成27)年5月12日、臨時議会最終日、同条例案は一部修正の上、賛成14、反対13で可決された。 条例は、賛成か反対に丸をつける二者択一が採択された。一方、賛成、反対、見直しの三社択一は、見直しの度合いがわからないなどの指摘もあったが、 二者択一案が可決されたことから、議決することなく終わっている。なお、住民投票の結果に法的拘束力はない。
 住民投票の日程は、2015(平成27)年7月26日告示、8月2日投開票で行われた。 その結果、計画に賛成が15101票、反対が63482票で、投票者の8割が反対に投票した。 当日有権者数は167589人、投票者は79264人、投票率は47.3%だった。
 住民投票の結果を受け市長は、2015(平成27)年9月に開催された定例市議会の冒頭、 「住民投票の結果を尊重し、つくば市総合運動公園基本計画を白紙撤回することとし、現基本計画及び基本計画による新たな事業の執行は 行わない」と述べ、計画を撤回した。これによって新総合運動公園建設問題は一応の決着を見たが、購入済みの土地の問題に加え、 市内の小中学生が陸上記録会で使用できる公認の陸上競技場建設に対しては、容認する声も多く、課題として残っている。 なお、同建設問題に関して市議会に「総合運動公園に関する調査特別委員会」が設置されたが、各会派の意見に隔たりがあり、 委員会としての結論を出すことは出来なかった。報告書では、各会派の意見を併記するにとどまっている。
筑波研究学園都市の歴史
 筑波研究学園都市の建設は、1956(昭和31)年に首都機能一部移転を目的にスタートした首都圏整備委員会によって学園都市構想が検討が開始されたことに始まる。 学園都市構想は、東京都内にある大学を東京から100km圏内の1カ所に移転し、東京の人口を削減、加えて残された大学の跡地の有効利用を図る。
 1960(昭和35)年8月に発表された試案では、都内にある大学130校の全学生約30万人、教職員約3万人とその家族約6万人を移転する。 それに2次、3次産業に従事する約31万人を加え70万都市の建設。 翌1961(昭和36)年4月の試案は、上記計画を基に、専門家の意見を得て学園都市構想として立案した。 構想では人口70万人、面積約1万haの建設用地を取得、それに工業地区を加えた新都市を建設する計画。
 この案をもとに、さらに省庁の試験研究機関の移転も加え、「研究地区」と「学園地区」からなる新しい都市建設の検討を開始した。
 首都圏整備委員会では、都市建設の候補地として、首都圏内の約10カ所ほどを調査。そのなかから、山梨県の富士山麓、群馬県の赤城山麓、栃木県の那須高原、そして茨城県の筑波山麓を建設候補地として絞った。 1963(昭和38)年には、4カ所の最終的な実地調査を行い、東京から近い、地形的に平坦である、霞ヶ浦から十分な水が確保できる、ことなどを理由に、 筑波地区に建設することを同年9月10日、閣議了解した。
 決定後の翌月、首都圏整備委員会は、NVT案を地元に示した。NVTは、筑波ニュータウンのフランス語表記のイニシャルをとったもの。 それによると、中央に高速道路が走り、北側は学園地区、南側は研究地区となっている。都市全体が緑で囲まれ、地区の約30%は緑地となっている。いわば理想的な都市像を示したものだった。 NVT案は、田畑まで買収地に含まれていたことから地元から反対運動が起こった。
 その後、主に買収地区を平地林に限定、さらに土地区画整理事業を取り入れることなどを柱に、規模を2700ha余りに縮小、南北に細長い計画案が示されたことから、地元の反対も鎮まり、概要が固まった。 このため、開発地区が分散されることから、南北にそれらを結ぶ2本の幹線道路、北側に学園地区、南側に研究地区を配置、その中央に中心市街地を置く。 南北の幹線道路の東側の道路(現在の東大通り)が、主要な動線との位置づけでその両端を、国道6号、国道125号に結んだ。 西側の道路(現在の西大通り)は、研究所と住宅地など、おもに近距離の移動動線とした。 また、新都市中心部では、この幹線道路の間に、歩行者専用道路を配置、歩行者優先の街づくりを行っている。
 事業は、「一団地の官公庁施設事業」「新住宅市街地開発事業」「都市計画公園事業」「土地区画整理事業」の4つの方式で進められた。 一団地の官公庁施設事業は、全面買収して行う方法。事業面積は約1550ha。 新住宅市街地開発事業は、新住宅市街地開発法に基づく都市計画事業。花室地区(旧桜村=現在の吾妻、竹園)、大角豆地区(旧桜村=現在の並木)、手代木地区(旧谷田部町=現在の松代)の3カ所で行われた。 面積は約260ha。中心地区には商業施設などが設けられた。竹園ショッピングセンター、並木ショッピングセンター、松代ショッピングセンターがそれに当たる。 都市計画公園事業では、洞峰沼を生かした洞峰公園(面積約20ha)とアカマツ林が特徴の赤塚公園(面積約8.5ha)を都市公園として決定した。 土地区画整理事業は、土地区画整理法に基づき市街地を整備するもの。竹園、妻木、苅間、小野川、小野崎など10カ所で行われた。 事業面積は約1100ha。
 新都市の用地買収は、1966(昭和41)年12月からスタート。買収予定面積は約1900ha、土地所有者は約2600人。 なお、買収価格はいずれも1坪(3.3平方m)当たり田1300円、畑1250円、開墾地1200円、山林1167円、原野1020円、宅地1400円。 1967(昭和42)年12月までに、目標の約3分の2の買収を完了。1971(昭和46)年2月までに買収をを終え、最終的な買収面積は約1800ha。
 1967(昭和42)年9月には6省庁の36機関(その後43機関)の移転を閣議了解した。 1968(昭和43)年10月、科学技術庁国立防災科学技術センター(当時)の建設が着工した。研究施設建設の第1号。 1969(昭和44)年3月には、のちに移転機関第1号となる科学技術庁無機材質研究所(当時)が着工する。 また、同年11月には研究学園都市開発事業の総合起工式を実施した。 さらに、建設、移転を速やかに実行するため1970(昭和45)年5月、筑波研究学園都市建設法が国会で成立する。 同年から1972(昭和47)年にかけ、いずれも当時で、文部省高エネルギー物理学研究所、建設省建築研究所、建設省土木研究所、 建設省国土地理院、科学技術庁宇宙開発事業団宇宙センターなどが続々着工する。
 1972(昭和47)年1月、花室東部地区(現在の竹園3丁目)の公務員住宅に入居開始。 同年3月、移転機関第1号として無機材質研究所が開設された。翌1973(昭和48)年筑波大学開学、1979(昭和54)年には図書館情報大学が開学した。 1980(昭和55)年3月、通産省(当時)公害資源研究所が開設され、当初決定していた国の研究教育機関の移転終了。
 その後も整備が進められ、1985(昭和60)年には国際科学技術博覧会(つくば科学万博)を開催、約2000万人が入場した。
筑波研究学園都市年表
1963(昭和38)年 研究学園都市の建設地は筑波地区とすることについて閣議了解
1964(昭和39)年 研究学園都市建設推進本部の設置を閣議決定
1966(昭和41)年 用地取得開始 
1968(昭和43)年 新住宅市街地再開発事業、土地区画整理事業などの区域決定及び事業決定
1970(昭和45)年 筑波研究学園都市建設法施行
1972(昭和47)年 公務員宿舎への入居開始
1972(昭和47)年 無機材質研究所開設(移転機関第1号)
1973(昭和48)年 筑波大学開学
1973(昭和48)年 土浦学園線一部開通
1974(昭和49)年 竹園東幼稚園、竹園東小学校、竹園東中学校が開園開校
1975(昭和50)年 学園東大通り一部開通
1980(昭和55)年 43の試験研究・教育機関の施設が概成、業務開始
1980(昭和55)年 研究学園地区建設計画承認
1981(昭和56)年 周辺開発地区整備計画承認
1981(昭和56)年 常磐自動車道柏−谷田部間が開通
1983(昭和58)年 つくばセンタービルオープン
1985(昭和60)年 国際科学技術博覧会開催
1987(昭和62)年 谷田部町、桜村、大穂町、豊里町が合併し、つくば市誕生
1988(昭和63)年 筑波町がつくば市に加わる
1989(平成元)年  新つくば計画策定
1995(平成7)年  第6回世界湖沼会議、10月23日〜27日、筑波大学大学会館などで開催
1996(平成8)年  科学技術基本計画閣議決定
1998(平成10)年 研究学園地区建設計画の変更決定及び周辺開発地区整備計画の変更承認
1999(平成11)年 つくば国際会議場開館
2002(平成14)年 茎崎町がつくば市に加わる
2005(平成17)年 つくばエクスプレス開業
2013(平成25)年 筑波研究学園都市50周年。11月12日、つくば国際会議場で記念式典開催
2016(平成28)年 第42回先進国首脳会議、伊勢志摩サミットの科学技術大臣会合。5月15日〜17日、つくば国際会議場で開催
2018(平成30)年 第17回世界湖沼会議(いばらき霞ヶ浦2018)、10月15日〜19日、つくば国際会議場で開催
2019(令和元)年 G20茨城つくば貿易・デジタル経済大臣会合。6月8日、9日、つくば国際会議場で開催。 G20大阪サミット(金融・世界経済に関する首脳会合)の関係閣僚会議。
2019(令和元)年 第74回国民体育大会、いきいき茨城ゆめ国体2019開催。9月18日〜10月8日。 つくば市は、つくばウェルネスパークをメイン会場とする公道を使用した自転車ロードレースと茎崎運動公園を会場にアーチェリーを実施。 またつくばカピオを会場に公開競技のパワーリフティングが行われた。
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